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「ただいま」
少し疲れたような声で青年、アッシュは妹、チェルシィの待つ家のドアを開けた。
「お兄ちゃん!」
チェルシィの明るい声に迎えられ、疲れた顔に少し笑みが広がった。大切な取引の時間に少し遅れてしまい、今日は一段と忙しかった。
だが、それを何も知らない妹に見せるわけにはいかない。ゆるゆると腕を持ち上げて妹の頭を撫でる。
「ちゃんとあの子の事を見ていたか?」
「うん!今また眠っているのよ」
視線をベッドに滑らせると、確かにそこには今朝見た少女が静かに寝息を立てていた。大分顔色は良くなっており、ホッとする。
名前も知らない少女。その美しさに引き付けられる様にフラフラとベッドに近寄って行く兄を見て、チェルシィはにんまりとした。
「お兄ちゃん、お姉ちゃんの事好き?」
「!?」
無邪気な問い掛けは、的確に的を得ていた。図星を付かれてアッシュは息を吸い込みすぎて軽くむせる。その様子を見てチェルシィはますます笑みを深く刻む。
「じゃぁさ!お姉ちゃんをお嫁さんにしようよ!そうすればずっと一緒にいられるでしょ?」
「そんな事無理に決まってるだろ」
「え〜どうして!?」
不満を露にさせる妹に兄は深い溜息を吐いて、眠っている少女に目を移した。
「彼女はきっと貴族のお姫様だろう。着ている物の質が違う」
それに、こんなに美しい少女が貴族でないわけがない。日に当たった事のないような白い肌に田を耕した事のない美しい手がそれを物語っている。
所詮は叶わぬ恋なのだ。少女も気が付けばすぐに家に帰ろうとするだろう。夢なんて見ない方がいい。
アッシュが必死に言い聞かせていると、小さな呻き声がシーツの擦れる音と共に聞こえてきた。
「お姉ちゃん起きた!?」
チェルシィの呼びかけに、反応してセシリアはゆっくりと目を開いて確認するように数回瞬きをした。
「あ・・・・」
目が合った。瞬間、アッシュの顔は茹蛸のように真っ赤に染まった。
一方、セシリアはぼんやりとそれを眺めながら意識をゆるゆると浮上させていく。
「あなたは・・」
どこかで見た事のある顔に記憶を巡らせていると、アッシュは慌てたように捲くし立てた。
「あ、あのどこか痛い所はないですか!?えっと、俺はアッシュって言います。こっちは妹のチェルシィ!あなたが浜辺に打ち上げられているところを見つけて・・」
「浜辺・・」
僅かだが思い出した。そこで一瞬だがアッシュと言う青年を見た気がする。おそらく彼に助けられた時に見たのだろう。
きちんとお礼を言おうと体を起そうとしたが、激痛が走った。つい忘れていたが、体中打撲をしており擦り傷があったのだった。
「す、いません・・・助けていただいたのにきちんとお礼も言えずに・・」
「いいんです!明日にでも医者を呼んできますから!今はゆっくり休んで下さい!」
「でも・・・」
「気にしないでお姉ちゃん。お兄ちゃんはお姉ちゃんにここにいて欲しいんだから」
「チェルシィ!!」
慌てて口を押さえたが、時既に遅し。それはしっかりとセシリアの耳に入っていた。
「え・・・?」
「え、あ、違うんです!あなたにも帰る所はあるでしょうから、早く帰れるように今は安静にと・・」
そこでアッシュは言葉を切った。話を聞いていたセシリアの顔が急に曇ったからだ。ひどく切なく寂しそうなそれに戸惑ってしまう。
「あの・・?」
気遣わしげに掛けられた声に少女ははっとしたように慌てて笑顔を見せた。だがそれも上辺だけである事はすぐに分かってしまった。
「大丈夫です・・これ以上ご迷惑は掛けられません。今すぐにでも出て行きますから・・」
「そんな事駄目ですよ!その体じゃぁ無理です!」
「でもご迷惑を・・」
「迷惑なんかじゃないです!むしろ大歓迎です!」
言ってしまってから、しまったと顔を赤くしたが彼女を引き止めるためならばいいと思いなおした。ずっと一緒にいられるとは思っていないが、せめて傷が癒えるまではここにいて欲しかった。
確かにほんの数分前までは夢なんて見ない方がいいと思っていたが、彼女の瞳を見てしまったら心がざわついて感情をコントロールする事が出来なくなってしまった。
「・・ありがとうございます」
「・・でも、いいんですか?皆心配しているんじゃないですか?」
今更だ。あそこまで引きとめておいて何を今更言っているのだ。彼女が頷いたら笑って送り出せる自分は果たしていたのだろうか。
しかしセシリアは伏せ目がちに眉を寄せて、とても言い難そうに口を開いた。
「・・私・・行くところがないんです・・」
レイルやルキアがどこにいるかなんて分からない。今更国に帰るわけにもいかない。今、自分に出来ることは早く傷を治して情報を集める事だけなのだ。
頑張ると決めたが、あまりの無力さにもやもやした心は晴れない。
「あなたが良ければずっとここにいてくれても構わないですから・・」
「そうだよ!私もお兄ちゃんも迷惑なんて思ってないよ!」
「ありがとう・・・」
見知らぬ自分にこんなにも優しくしてくれる。人の温かさにこみ上げるものが押さえられない。
「そう言えば、お姉ちゃんの名前は何て言うの?」
チェルシィの明るい声がその場のしんみりとした空気を払拭した。
「私はセシリアよ・・・」
セシリア・ミラ・ロシェルと言うのが彼女の正式な名前であったが、この時セシリアは貴族だと分かる本名を言う事を避けた。
貴族の姫としてではない、ただのセシリアとして彼らに向き合いたかった。
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