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思いつめた顔をしたママの手には離婚届が静かに握られていた。
「ママ・・・まさか・・・」
このまま離婚するのか、と続くはずだった言葉はしかし、紙が破れる音で飲み込まれた。
え、と思った時には既に離婚届が真っ二つに裂かれていた。
そしてママは驚くあたしと帝君に向かって満面の笑みを見せると、
「ごめんねぇ〜。浮気、ママの勘違いだったのぉ〜」
あっけらかんと言ってのけた。しかも小首を傾げるポーズ付きで。
・・・殴っていいかな。いいよね。ママのせいであたしがどれだけ悩んだか少しは分からせるべきだと思うの。
だけどやっぱりあたしはそんな事は出来ず、困惑しながらもママの幸せと、帝君と一緒にいられる事にホッとしたのだった。
「・・でも、誤解って?そもそもどうしてママは浮気なんて思ったの」
そう言えば詳しく聞いてなかった。聞こうとしてもママは口を閉ざしていたし、聞きにくいって事もあったから。
だけど、誤解が解けた今、ママは恥ずかしそうに頬を染めながらもこれまでの経緯をきちんと説明してくれた。
明さんが仕事だと言っていたのに金髪の女性と一緒にいるところを見てしまった事。親しげに会話しながらレストランに入って行った事。
確かにそれだけ見れば、ママが浮気だと思ったのも無理はない状況だろう。
「でもね・・・その金髪の人・・・男性、だったのぉ」
・・・は?
「ある企業の社長さんで、明さんとは留学時代から懇意にしていたらしくってぇ・・・髪もロングだったし、見たのは後姿だけだったから間違えちゃってぇ・・・」
・・・はぁぁ?
「レストランで仕事の話をしてたらしいんだけどぉ、ママ、浮気だと思い込んじゃって確認もせず日本に帰国したから・・・」
・・・もう言葉もないわ。
「だから、二人ともお騒がせしてごめんねぇ!ママ達は離婚なんてしないわぁ〜。ずぅっとラブラブでいるから安心してねぇ」
言って、明さんと見詰め合う目にはハートが飛んでいる気がする。誤解が解けた事で、ますます二人の仲は親密に、ってやつですか?
やっぱり殴っておくべきだったかもしれない。
イライラとあたしが頭を押さえていると、これまで黙って聞いていた帝君が進み出た。
「では、この屋敷に戻って来るんですね?」
「もちろんそうよぉ。実はもう手配して、朝には荷物が届くはずだから〜」
「・・・そうですか。それは良かったです。せっかく義姉さんとも仲良くしていたのにこのままお別れかと心配していたので」
大輪の花が綻ぶようように、艶やかな笑みを口元に乗せる少年に心臓が早まる。久しぶりに天使の仮面を被った彼を見た気がする。
ママ達は彼の言葉の本当の意味を知らないから、嬉しそうに笑っているけど、あたし達が付き合ってるなんて知ったらどうするんだろう。
最初は冗談で付き合ってもいい、と言っていたけど今は状況が違う。いくら血が繋がっていなくても戸籍上は姉弟なんだから。
きっと、反対されて別れさせられるんだろうな。下手したら婚約者を決められて結婚させられるのかもしれない。
綱渡りのような恋だけど、先の見えない恋だけど、今はこの気持ちを大切にしたいから何としても隠さないと。
密かに決意を固めていると、明さんがところで、と切り出した。
「二人ともこの後の新年パーティには出席するんだろう?」
「僕は出席予定ですが、義姉さんは・・・」
帝君は答えながらあたしの顔をチラリと見る。新年パーティがある事は知っていたが、出席するなんて聞いてなかった。
そう言うと、明さんは少し困ったような顔をした。
「急で悪いんだけど、茉莉ちゃんにぜひ会いたいと言う方がいてね」
「あたしに?」
「そう。提携を結んでいる企業の社長のお孫さんでね。帝のパーティにも出席されていたんだけど、その時に茉莉ちゃんを見てぜひお会いしたいと申し出があったんだよ」
「それって・・・」
見開いた目に、微笑んで頷く明さんが映る。
「茉莉ちゃんさえ良ければ会うだけ会ってみてくれないかな。それでどうするか決めて欲しい」
「で、も・・・」
「あぁ、お付き合いしてる人がいるのかな?それならこちらからお断りするよ」
付き合っている人ならいる。目の前に。だけど・・そんな事言えないよ。
押し黙るあたしに、ママは何かを察したように明さんに言った。
「実は茉莉ちゃん付き合ってる人がいるみたいなのよぉ。恥ずかしくて言い出しにくいんじゃないかしら?」
「えっ!?」
「今日、初詣に行く予定だった子よぉ。付き合ってるんでしょぉ?」
ママは流架君の事を言っているんだ。彼とは勿論付き合ってない。友達だ。だけど・・・
「そ、そうなの。最近付き合い始めたんだ!だから、その人とは会えないよ」
婚約者、なんて話を聞いてしまったあたしは誤魔化すためについつい嘘をついてしまった。こう言えば断ってくれるって思って。どうせすぐに二人は海外に行ってしまうからバレないだろうと。
だけど、そんなあたしの淡い期待は明さんの一言によって脆くも崩れ去る事になる。
「そうなんだ。それはぜひ会ってみたいな。今日のパーティに招待したらどう?」
・・・最悪だ。隣にいる帝君から負のオーラをひしひしと感じながらも、
「はい・・・誘ってみます」
こう言うしかなかった。
この後、気軽に嘘なんてつかなければ良かった、とあたしが死ぬほど後悔するとはこの時はまだ露ほどにも思っていなかった。
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