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どうしてここに・・・?
あれほど避けていた人物を目にして固まるあたしだけ拍手が出来ないでいた。彼は勿論遠くにいるあたしに気付くはずもなく、お辞儀をして手にしていたヴァイオリンを顎に当てる。
拍手が収まり、瞬時にホールに静寂がおりる。皆彼の美貌に感嘆し、彼の奏でるであろう音色を心待ちにしていた。
あたしも気が付けば必死に耳を澄ませていた。そう言えば御影君のヴァイオリンを聴くのは久しぶりだ。
綺麗な高音から始まるそれにビクリと肩が震えた。
「まさか・・・」
だけどそれは次の瞬間には確信へと変わっていた。
「嘘・・・」
どうしよう。こんな時なのに涙が出そうだ。それはあたしと御影君とで作曲したもので・・・。
周りの人も聞いた事のない音楽に不思議そうにしながらも微笑んで目を閉じる。その姿にあたしは耐えられなくてついに一滴、涙が零れてしまった。
「・・茉莉?」
帝君が珍しく気遣いの色を示しているのに答えられなかった。あたしの目はただ一心に御影君だけを見詰めていたから。
そして、あたしはこんなにも・・こんなにも彼に会いたかったのだと改めて思い知らされる。
感極まってしまって、途中から涙を止める事に必死で曲を聴いている余裕がなくなってしまった。
気付いた時は演奏は終わり、大きな歓声と拍手が沸き起こっていた。ハッとして壇上を見上げると柔らかな微笑を浮かべる御影君がいた。
あぁ・・彼の笑顔もとても懐かしい。
これが最後だと言わんばかりに目に焼き付けようとしていると、ふいに彼がこちらに目を向けたような気がした。
「!?」
目が合った・・・!?
ギクリとしたが、よく考えたらあたしがいるのは壇上から一番離れた出入り口の近く。御影君があたしの存在に気付く可能性も非常に少ないのだ。
大丈夫、大丈夫と自らを落ち着けていると再び社長さんのスピーチが始まったが、それも思いのほかすぐに終わった。
もう大丈夫だと体の力を抜くと、不貞腐れたように帝君が睨んでいた。
「ちょっと・・何で怒ってるのよ」
「・・・目がパンダになってますよ」
「えっ!?本当に!?鏡鏡!!」
慌ててバッグを広げて鏡を取り出すが、どこもメイクは崩れておらず、もちろんパンダにもなってはいなかった。
またやられた・・・!!
精一杯の目つきで睨んでやっても帝君は堪えた風でもなくニヤリと口の端を持ち上げるだけだった。
普段大人びているのにこんな時だけ小学生か、と罵りたくなる行為ばかりする彼を怒鳴りつけてやろうとしたが、ここでは不味い。
ここで反応したら帝君が付け上がるだけだ、と必死に冷静になろうとしていると、
「・・桐・・堂・・?」
背後から唐突に、それは訪れた。
独特なテンポとしっとりとした声に脳裏でははっきりと姿が浮かんだ。
「・・桐堂・・話、ある」
振り向きもしないあたしに御影君は何も咎めず一歩ずつ近づいて来るのが気配で分かった。
嫌だ。今顔を見たら・・・
「僕の義姉さんに何か用ですか?」
あたしの震える肩を抱いて、帝君が少々棘のある口調で言った。また、あたしを庇ってくれたんだろうか。
肩に触れる手がひどく暖かくて大きて、あたしの動揺も少し和らいだ。
「初めまして。僕は彼女の・・義弟です」
「・・俺・・桐堂に話・・ある」
「義姉さんはないそうですよ」
会話が途切れる。見なくても分かる。御影君はきっと少しだけ困ったように眉を寄せているのだろう。
それを考えるとあたしが今とても酷い事をしているのではないか、と思い始め、同時に彼は何を話したいのだろうと気になってくる。
少しだけ、ほんの少しだけ顔を見るだけだと顔を傾けた時には、きっともう心は決まっていたんだろう。
御影君は悲しげに目を伏せていた。こんな事は予想もしていなくて―――
「・・・あ・・」
渇いた声が喉から出ていた。それに御影君は顔を上げ、必然的にあたしたちは目を合わせることになる。
「御影君・・・」
溢れ出す彼が好きだと言う想いと涙。ねぇどうしてあの曲を弾いたりしたの?あたしは馬鹿だから、また誤解しちゃうよ。きっとシェリスさんを想って弾いたと分かっているのに・・・。
「・・桐・・堂?」
突然泣き出したあたしに御影君は戸惑いの表情を浮かべていた。そんな顔させたくないのに、涙が止まらない。
「・・話って何ですか」
帝君が代わりに言ってくれなかったらあたしはずっと聞けなかったかもしれない。
・・・あたしは本当に馬鹿だ。
涙を必死に拭っていたあたしには何の余裕もなかったから、帝君が今どんな顔をしているかなんてまるで気にも止めなかった。
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