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自然とごくりと息を呑んだあたしの心中はかなり複雑であった。彼の事を知りたいとは思うが同時に知りたくないとも思う。
だが、少しだけ聞きたいと言う気持ちの方が勝った。例えそれがあたしにとっては悲しい事でも構わない。ほんの少しだけでも御影君に近づけるならそれでいい。
「・・それって・・あの写真の女の子と関係してるの?」
「・・・シェリスは体が弱かったんだ・・」
随分と間を置いてから彼はポツリポツリと話し始めた。
日本語では説明しにくいのか少し話しにくそうに、けれど真剣に話すその姿をあたしは見逃すまいとひたすらに見詰めていた。
「昔・・フランスにいて・・シェリスと会ったのは親がやっている病院でだった」
胸がチクリとした。御影君の硝子玉のような瞳が悲しげに曇った。その瞬間から嫌な予感はしていた。
シェリスさんはその頃から重い病気にかかっていたようで、個室でいつも一人で過ごしていたらしい。
御影君は幼い時はよく病院に遊びに行っていたらしく、その日も一人で院内を歩いていた。その時――
「・・・歌が・・聞こえてきた・・・とても綺麗で・・どこから聞こえてくるのか・・気に、なった」
「それ、シェリスさんが歌ってたんだね・・」
「ん・・・すごく・・綺麗だった・・」
そう言う御影君の瞳が深く色づいた。きっと今彼はここにいない。あたしなんて見てもいないんだろう。いつだって彼は、シェリスさんだけを・・・。
「・・好き・・なんだね」
何を、とまでは聞かなかった。いや、聞けなかったのだ。けれど御影君は何の躊躇もせずただ一言、
「・・好きだ・・今でも・・すごく」
分かっていた。だけどやっぱり言葉で聞かされるのは辛かった。あたしの気持ちも知らないでこんな笑顔を見せる彼はあたしの中では残酷な悪魔でありただ一人の王子様だった。
鼻がツンとしてじわじわとせり上がってくるものを感じて何か言わなければと思ったが、どうしても言葉が出なかった。
僅かに沈黙が降りたが、それはすぐに破られた。珍しく御影君から口を開いたのだ。
「・・こ、のヴァイオリン・・シェリスのなんだ・・」
「・・・えっ?」
「シェリスがいたから・・・ヴァイオリンと出会えた・・」
シェリスさんは生まれた時からずっと病院で生活していて、何か娯楽をと両親が考えたのだろうか、歌を歌ったりヴァイオリンやハーモニカなど様々な音楽をやっていた。
歌に誘われてやって来た御影君をシェリスさんは歓迎した。同じ年頃の子供と接する機会がなかったのだ。
そこで御影君はヴァイオリンと出会ったのだ。
シェリスさんから御影君はヴァイオリンを教わった。彼女は病気さえなければ世界に名を轟かせていた腕前であったようだ。
それからと言うもの、毎日のようにシェリスさんの病室に行き一緒にヴァイオリンを弾いたり話をしたりしていた。
御影君もクウォーターと言う事で他のフランス人の子達に馴染めずにいたのでシェリスさんが初めての友達であった。
友情が愛情に変わるのは簡単な事で、御影君は幼心にシェリスさんを思っていた。
「その頃から・・シェリスは作曲も、してた・・・」
いつか病気を治して自分で作った曲を沢山の人に聞いて欲しい、とシェリスさんはいつも口癖のように言っていた。彼女は信じていたのだ。自分は必ず治ると。
作曲を始めて約2年。今まで順調そうに思えた彼女だったが突然体調を崩して面会謝絶となってしまった。
「・・その時・・初めて知った・・シェリスは・・治らない・・」
今だ治療法不明の不治の病だと父が沈痛な面持ちで言った事は今でも時折夢に見る、と御影君は自嘲したがあたしは笑えない。
「不治の病って・・・じゃぁシェリスさんは・・・」
とてもおぞましい一文字が頭を過ぎった。嫌な予感はますます確信を持ち始める。
「・・シェリスはずっと外に出たがってた・・・今はきっと笑ってる・・」
「・・・うん」
「・・・・・・涙・・・」
そこで初めて自分が泣いているのだと気付いた。ひどく熱い涙が止め処なく頬を伝っては床に見えない染みを作っていく。
「どうしてあんたが・・・」
「そんな事、あたしにも分からない・・・でも」
あたしには慰める事も出来ないし気の効いた言葉も見付からない。だから泣く事しか出来ないんだよ。それが今のあたしの精一杯。
だってね・・・
「好きなんだよ・・・あなたのヴァイオリン・・」
それは本当だけど嘘で嘘だけど本当の事。だけど御影君は笑ってくれたから。
「・・・あんたって・・・変、だけど・・不思議・・」
「ちょっと変って・・」
「・・あんたとなら・・曲の続き、書けるかな・・」
「曲って・・・あ、その曲・・・」
「・・・そう。シェリスが作った・・・でも完成する前に・・・。でもシェリスと約束した・・この曲を俺が完成させる、って」
ゆっくりと語りかけるようにヴァイオリンを撫でる手がピタリと止まる。
「・・ずっと、考えても・・曲の続き・・全然分からなかった・・・でも・・あんたとなら・・出来る、気がする」
「そんな・・・あたし、音楽の事なんて全然・・!!」
「・・だからこそ・・そこにいてくれる・・?それだけで、いい」
体に電流が走った。甘く痺れてあたしの思考を焼き尽くす。
「あたしでよければ・・・」
思考が焼かれて、上手く考える事が出来ないからきっとこんな事を思ってしまうんだろう。
彼の事は諦めたはずなのに、無理だって実感したはずなのに。
どこかで、やっぱり期待してしまう。傷つくのは勿論嫌だけど、それに勝る思いがあるから。あたしはそれに従おうと思った。
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