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「おやまぁ。こんな若いお嬢さんが来るなんて珍しいこと」
「勝手に入ってすみません」
「いいえ、いいんですよ。今日はどんな楽器をお探しかしら?」
「すみません、楽器が欲しくて来たわけじゃないんです。ちょっと人を探していて・・・でももういいんです。いないみたいだから・・」
ここにいるかもしれないと思ってきてみたが、御影君はいないようだし、このおばあさんが御影君と親しいとも考えにくかった。
諦めて素直に帰ろうと思ったが、おばあさんはもしかして、と口を開いた。
「流架君の事かしら?」
御影君の名前が流架である事にいまいちピンとこなかったので反応が一瞬遅れてしまった。
「そ、そうです!その人です!・・でも何で・・?」
人を探していると言っただけですぐに目的の人物の名が出てくるなんて偶然とは思えない。
そう思って不思議そうな顔をしたあたしにおばあさんは笑顔でやんわりと言った。
「あなたの着ている制服が流架君のものと良く似ていたものだから・・。それに、ここに来るなんて今ではあの子ぐらいなのよ」
「そうですか・・あの、その流架君は今どこにいるかご存じないですか?」
「ごめんなさい。ここに来る時以外、どこにいるかは分からないのよ。何か急ぎの用事かしら?」
「いえ、別に用事なんてないんですけど・・・ただ会いたかったんです」
不思議だった。こんなにも素直に自分の気持ちを言葉に出来るなんて。
おばあさんはそれを聞いて、まあ、と小さく驚くと花開いたように微笑んだ。
「嬉しいわ。あの子にも会いたいと言ってくれるお友達がいるなんて」
本当に可愛い孫の事を話す祖母のような口ぶりだ。一体このおばあさんは御影君とどう言う関係なんだろう。
「私があの子のヴァイオリンを直した事が始まりだったのよ」
聞きたい事が顔に出ていたようで、おばあさんは親切に答えてくれて少し話をしましょう、と奥に案内してくれた。
奥のドアを開けると居間になっており、こじんまりとしたちゃぶ台が置いてあった。
「狭いところだけれど、良かったら座ってちょうだい。今お茶を入れるわね」
「あ、すみません」
座布団の上に慣れない正座をして待っていると、おばあさんが日本茶を持って来てくれた。
「あら、足を崩してもいいのよ?私も正座は苦手なの」
そしてあたしの向かいに足を崩して座る。きっと気を使ってくれたんだと思う。
本当にいい人だ。優しくて暖かみがあって上品。実際は70歳近いだろうけど、それを感じさせない輝きがこの人にはあった。
他人に興味を示さないと言う御影君もこのおばあさんだからこそ、ここに出入りしているんだろう。
あたしがこっそりと観察していると、ふいにおばあさんが一口お茶を飲んで、あたしを見たのでドキリとしてしまった。
「まずはあなたのお名前を聞かせてもらえるかしら。私は春江と言うの」
「あたしは・・茉莉です」
苗字も言おうか一瞬考えたが、おばあさんに合わせて名前だけ言う事にした。それにあたしはまだ桐堂と名乗る自信が無い。
「茉莉さんね。可愛らしい名前ねぇ。最近の子は本当に珍しい名前が多くて羨ましいわ。流架君の時も女の子かと驚いたものだったわ」
おばあさんにつられてあたしも自然と笑顔になる。
それからあたしと春江さんは色々な話をした。
御影君との出会いは偶然だったんだそうだ。散歩をしているとヴァイオリンを片手に途方に暮れている少年がいて声を掛けた。それが御影君だ。
どうやら弦が切れて演奏出来なかったようだ。春江さんによればその頃の御影君はフランス帰り直後だったようで片言の日本語しか話してくれなくて苦労した話を笑いながらしてくれた。
春江さんは元々ヴァイオリン造りの職人をしていたらしく、その時も切れた弦をすぐに元通りにした。
そうしたら御影君は今の彼では信じられないが、飛び上がるくらいに喜んで春江さんのためにヴァイオリンを弾いてくれた。
聞くところによると、そのヴァイオリンは彼にとっては命そのものだったようで、本当にホッとした様子だったと言う。
それからちょくちょく店に出入りするようになり、たまにヴァイオリンの調子も見てもらうらしい。
御影君ほどの人ならもっと一流のヴァイオリン職人がいるはずなのに、わざわざ春江さんの所にくるのが御影君らしいと思う。
話が終わる頃には出されたお茶はすっかり空になって、あたしは佐々木さんが待ってくれている事を思い出した。
「あ、あたしもう行かないと・・!お茶ありがとうございました!」
「まあもう行ってしまうの。また来て頂戴ね」
「はい!必ず来ます!」
言葉通り必ず来るつもりだった。今度は御影君の事なしに。
大急ぎで靴を履いて走り出そうとした時、春江さんが思い出したように小さく声を上げた。
「そうだわ。この前あの子大切なものをここに置き忘れていったの。良ければ届けてくれないかしら」
「え、でもあたしよりも春江さんの方が会えるんじゃないですか?」
「最近来たばかりだからねぇ。学校に行くようにも言ったからきっと茉莉さんの方が会えるわ」
暗に励ましてくれているのが伝わり、その気持ちを無駄にする事など出来るはずもなく、差し出された物を受け取った。実を言うと、御影君の忘れ物にも興味があったのだ。
「これは・・・写真?」
「ええ。何でも、あの子にとって一番大切な人だと前に言っていたわ」
大切な人・・・?
その写真の人物は明らかに日本人ではなかった。ふわふわの栗毛を風に靡かせて微笑んでいる12、3歳のお人形さんみたいな美少女。
どうして御影君が女の子の写真なんか持っているんだろうと嫌な予感を覚えながら裏返すと、フランス語でなにやら文字が書いてあった。
彼に会ってから外国語の専攻をフランス語にして、自分なりにも基本的なものは勉強したので一部だけだが読めた。
それはあたしにとっては読めない方が幸せだっただろう。
”愛してる”
これがシンデレラの悲しい恋物語の始まりだった。
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