序
朱里は朝からずっと不機嫌だった。
お気に入りの薔薇の香水をベッドに零してしまうし、マスカラは誤って瞼に付けてしまった。
「これも全てあの女のせいですわ」
イライラと長い足を組みかえる姉の後ろで弟の紅貴は新作の毒薬をうっとりと眺めている。
「ちょっと、紅貴聞いているの?」
「えー?聞いてるよー?この毒薬の致死量でしょう?これはねぇ、ごく微量の・・・」
「そんな事誰も聞いていませんわ!!」
ヒステリックに叫ぶと、素早く太ももに取り付けてあったナイフを後ろに向かって投げつける。それは綺麗に紅貴の手元にあった毒薬の瓶へと命中し、音を立てて割れた。
「あ〜!一晩かけて調合したのに〜!」
無味無臭の液体状の毒物は床の上をすべるように広がっていく。その様を紅貴は涙目になりながら見守っていた。
「私の話を聞いていないからですわ!そんなものより、もっと重要な事があるでしょう!」
短めのスカートを直しながら立ち上がると、釣り目がちの鋭い眼差しで弟を射抜いた。
紅貴は肩を落としながら、姉をここまで不機嫌にさせる原因である少女を思い浮かべた。
「あの子の事は橙夜様が決めたんだから仕方ないよ。僕達は従うしかないんだから」
「分かっているわよ!でもだからって何で私があの女の面倒を見なきゃいけないわけなのよ!?」
美しい顔を歪めて忌々しそうに赤い唇を噛む姉を横目に、弟は昨日の騒動を思い返した。
鞍馬が紫織を2週間こちらに住まわせると宣言してから九条側も鞍馬側も大混乱だった。特に蒼司は今にも飛び掛らん勢いで鞍馬に詰め寄った。そこでまたもや騒動が起こるかと思いきや、意外な事にそうはならなかった。
紫織が周りの声を抑え、行くと宣言したからだ。潔く負けを認め、罰ゲームを一人で受ける覚悟を決めていた彼女にとって鞍馬の申し出を断る理由は無かった。
それでひとまず平和に体育祭を終えたのだが、朱里は納得していなかった。
鞍馬以外は罰ゲームの内容を誰も把握していなかった。教えてもらえなかった事と紫織が絡んだ事で朱里は酷くショックを受けたのだ。
そのショックが収まっていないところに止めの一撃があった――寮や授業で紫織の面倒を見ろ、と言う鞍馬の通達である。
「同学年で、私の寮の部屋の隣が空いていると言う理由で・・・橙夜様もあんまりですわ!」
大げさに嘆いて顔を覆う彼女を、紅貴は呆れつつ見るとボソッと言った。
「・・・そんなに嫌ならあれを理由に断れば良かったのに」
独り言に近い、ごく小さな声だったが、朱里の耳にはしっかりと届いていたようで、
「何ですって?」
地を這うような低い、どすの利いた声が返って来て、紅貴は慌てて首を振った。
「僕は心配してるんだよ!部屋も隣になるんしょう?だったらちゃんと気をつけないと」
「そんな事分かっていますわ。私は何年もこうして来たのよ。今更あの女に気付かれるはずないですもの」
「そうだけど・・・まぁ、気をつけてね」
頼りなさ気な弟に、姉は自信満々に鼻を鳴らして部屋を出て行った。
これから紫織を出迎えて教室や寮を案内しなければならないのだ。彼女にとっては非常に不本意だろう。
長いポニーテールを靡かせて部屋から颯爽と消えた彼女を紅貴は複雑な思いで見送った。
いつからこうなったんだろう――姉、いや朱里は。物心ついた時から一緒にいた。性格など違う所は多いが、双子だからこそ分かり合えていると思っていた。自分こそ朱里を一番分かっていると信じていた。
だが、5年程前から片割れは変わってしまった。例え姿かたちが変わってしまったとしても大丈夫だと信じていたが、最近では内面も掴めていない様に感じていた。
自らが少しシスコン気味だと知っていた紅貴は彼女が心酔する鞍馬にも少なからず嫉妬を覚えていた。だが、今はそれ以上に紫織の存在が煩わしく思われる。
鞍馬に興味を持たれ、朱里を煩わせる憎き敵――鞍馬が頷けばすぐにでも毒を仕込むなり爆発の巻き添えにするなり出来るのに。
不穏な考えが脳裏を過ぎったが、紅貴は別段気にする事も無く朱里が投げたナイフを手に取る。毒薬が刃先を濡らし、妖しく光るそれを少年は無言で壁に投げつけた。
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