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 照りつける太陽の下、紫織はじっとりと汗をかいた手を体操服で拭いながら緊張の面持ちで顔を上げる。

 運動場では二人の男子が必死の形相でデッドヒートを繰り広げていた。彼らの手には赤いバトンがしっかりと握られている。

 そのバトンだけは何があっても落としてはいけない。刻一刻と近付く出番に比例して緊張感が増していく。大きく深呼吸をすると肩からかけたタスキが僅かに揺れた。

 このタスキがますます紫織を緊張の渦に突き落とした。湿布を貼った背中もズキズキと鋭い痛みを訴えかけて来て、軽く眉根を寄せた。

 そんな事をしている間に次の走者へとバトンが渡り、風のように目の前を通り過ぎて行く。それを見送り、次の走者がレーンに出て待機する。

 青褪める紫織とは正反対に待機する走者――黎は眼鏡を僅かに持ち上げて横目で少女を見た。

 「今にも倒れそうだな」

 揶揄するような口調だったが、紫織には彼の心中を察するゆとりなど無かった。ただ彼の言葉に自分は青褪めているのかと妙に納得していた。

 「・・・リレーなんて今まで出た事ないんです」
 「一般的な学校にもリレーはあるのでは?」
 「ありますけど、クラスでも早い方が選ばれて出るんです。私は平均よりずっと遅くて選手なんて選ばれるはずもないんです」

 それなのに、紫織は今アンカーとして運動場で自分の出番を待っている。ありえない事だが、現実として起こっている。元凶は分かっている、目の前の少年だ。


 午前中に起こった事件のため、午後からの競技に参加出来る生徒が大幅に減ってしまった。特にリレー競技の選手はほぼ全滅だった。元々運動神経の良い生徒を点数の高いリレーに選んでいたが、それが裏目に出てしまったのだ。
 運動神経が良い生徒は戦闘においても優秀で、鞍馬との争いに我先にと飛び掛っていってしまったのだ。

 このままでは勝つどころか勝負が出来ない。どうしようかと頭を悩ませたが、九条側に怪我人が続出したのなら、当然鞍馬側も同じ状況になっているはずだった。
 それとなく調べたところ、向こうも全く同じ事で揉めていたと知り、競技の変更を打診したのだ。何の競技をしようかと考えた結果、体育祭最後の競技である男女混合リレーに決定した。午後の部の競技を全て出来るはずもなく、お互い体育祭どころではなくなってしまったため、最も点数の高いリレーで勝敗を決める事になったのだ。

 どうしても勝たなければならない紫織達はベストメンバーを揃えなくてはならなかった。そこで白羽の矢が立ったのが黎だった。無傷であり、御三家の一人である彼の足の速さは折り紙つきである。これで鞍馬に対抗出来ると思われたのだが――

 「嫌です」

 あっさりと黎が拒否したのだ。
 どんなに頼んでも命令しても首を縦に振ろうとしない黎だったが、紫織の必死な顔を見て何を思ったのかある条件をのめば出場すると言った。

 その条件と言うのが紫織が選手としてリレーに出場すると言うものだった。これに蒼司は酷く反発したが、紫織は彼の意図に気付いた瞬間、頷いていた。

 黎は紫織が仕えるに値する主かどうか試そうとしていた。彼女の根性と体育祭にかける思いを計ろうとしていたのだ。

 ここで引いたら彼とは完全に分かり合えなくなると感じた紫織は背中の痛みを感じながらも、出場すると宣言したのだ。


 だが、実際にリレーが始まると完全に怖気づいてしまった。周りが自分より数倍も足が速い事を改めて気付かされ、打ちのめされる。

 今にも泣き出しそうに唇を噛む少女に、少年は鬱陶しそうに溜息を吐いた。

 「出場すると即答した人とは別人みたいだ」
 「・・・っ」
 「・・・俺が相手を出来るだけ離す」

 俯いた頭上に振って来た声はぶっきらぼうだったが、これまで聞いた彼のどんな声よりも優しく聞こえた。

 本当に彼が言ったのだろうか、と咄嗟に顔を上げたが目の前にいたはずの少年はバトンを受け取って駆け出していた。
 ほぼ同時にバトンを受け取ったにも関わらず、ぐんぐんと相手を引き離していく黎に呆然としていると、コースに出るように促される。

 緊張感は吹き飛んでいた。黎が懸命に力を振り絞っている。手を抜こうと思えばいくらでも出来るのに、間違いなく彼は真剣だった。本気で勝とうとしている。
 その思いに答えなければならない――タスキを強く握り締めた後、近付いてくる黎へ背中を向けて手を伸ばす。

 後ろを向いて確認しなくても彼の思いが伝わって来るようだった。背中は相変わらず悲鳴を上げているが、走れると思った。
 バトンを受け取り、勢い良く地面を蹴り上げた――のだが。

 「え?」

 思いとは裏腹に体はついて行かず、突然駆け出した事で足が縺れてしまった。真正面を向いていたはずなのに、気が付くと眼前には地面が迫っていて、紫織は自分が転びそうになっているのだと知る。

 駄目だ、と思っても体は既に転ぶ体勢に入っており、条件反射で両手を前に突き出した。

 視界の端にバトンが自分の体と同じ様に地面へと落ちていくのを捉えながら、しかしどうする事も出来ずに紫織は派手に転んだ。

 両膝と手のひらに熱い痛みを覚えたが、それ以上に彼女を傷つけたものは、目の前に転がるバトンだった。  











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