10
「失礼しまーす」
言いながら翠は保健室の扉を開けた。
一色学園の保健室には常に医師免許を持った保険医が待機している。怪我人や重傷者が多いためだ。
しかも教師と同様、保険医も九条家に仕える家の者が就いている。身内と言う事で生徒達の信頼も厚い。
「先生・・・あら?」
その信頼のおける保険医は不在だった。消毒液の匂いが漂うそこはひっそりとして外の喧騒が嘘のようだ。
「変ねぇ今日は怪我人が出るかもしれないから待機していてって言ったのに・・・」
首を傾げる翠の後ろで紫織は何気なく目に付いたベッドが盛り上がっている事に気付いた。
「翠さん、人が・・・」
「え?」
てっきり無人だと思っていた二人は驚いてベッドを見た――そこは確かに人の形に盛り上がり、密かに呼吸するように上下している。
人の気配には敏感な翠はその存在に気付かなかった事に眉を寄せた。しかも今日は全員体育祭に出ており、保健室で休んでいる人物などいないはずだ。
まさか敵が潜んでいるのでは、と翠は近くに置いてあった医療用ハサミを手にし、紫織を後ろに庇った。
「そこにいるのは誰?今すぐ出て来なさい」
固い声で翠が命じると、布団が一度大きく動きゆっくりと中の人物が起き上がる。眠そうな目でこちらを見る顔に二人とも見覚えがあった。
「あ・・・」
それは体育祭に一度も姿を見せなかった久我黎だった。眼鏡の無い顔は年相応の幼さを残し、日頃の怜悧な雰囲気はなりを潜めている。
敵でなかった事にホッとしつつも翠は次の瞬間には怒りに眉を上げていた。
「どこにいるのかと思ったら、こんなところにいたのね?」
ハサミを置くと、足早にベッドサイドまで行く。そして寝起きが悪いのか、不機嫌そうに目を擦る黎の頭を軽く小突いた。
「堂々とサボるなんていい度胸じゃないの。よく眠れた?」
「・・・何ですか?もう終わったんですか?」
興味無さそうに眼鏡をかける黎に、翠はますます眉を吊り上げる。
「終わっていないわ。今大変な事になってるのよ。それなのにこんなところで暢気に寝ているなんて、信じられないわ」
「一応何があったか聞いておきます」
「・・・騒動があって怪我人続出なのよ。あ、先生はどこに行ったの?これからどんどん運ばれてくるのに」
「すぐに戻って来ると思いますよ。まぁ寝ていたのでよく分かりませんが」
彼が無責任に言うと、すぐにタイミングよく白衣を着た初老の男性が入って来た。
男性は紫織を見ると、おやという風に皺の刻まれた目元を動かし、椅子にゆったりと腰をかけた。
「紫織様だね。背中をどうなさったのかな?」
「あ、あの、少し打ち付けてしまって・・・」
「どれどれ・・・」
瞬時に背中を痛めている事を見通した事に驚きつつも、促されて紫織は彼の前に背中を向けて座る。
すると、先生は軽く背中に手を当て、数回触れると心得たとばかりに手を離し、
「骨に異常はないですな。念のため湿布を貼っておきますか」
穏やかに言うと、立ち上がって棚から湿布を取り出した。
カーテンをして目隠しをしてからひんやりとした湿布を背中に貼ってもらうと心なしか幾分痛みが引いたような気がした。
「ありがとうございます」
お礼を言うと、扉の外が急に騒がしくなって来た。どうやら怪我人が運ばれて来たらしい。
外の様子を伺っていた翠は戻って来るなり、
「先生、揉め事があって怪我人が出ているんです。治療をよろしくお願いします」
頭を下げる。そして未だベッドに座る黎を睨んだ。
「ほら、健康な人はさっさと出て。邪魔になるだけだから」
彼女の言に黎は煩わしそうに溜息を吐くと立ち上がる。刹那、扉から怪我人が続々と運び込まれて来た。
人で溢れかえる保健室から出ると、紫織様、と慣れ親しんだ声で呼ばれる。
「蒼司さん」
「お怪我の方は大丈夫なのですか?」
「はい。湿布を貼ってもらいました」
彼を安心させようと微笑むと、蒼司は青褪めた顔を少しだけ綻ばせた。
「安心しました・・・こちらも命に別状のあるものはおらず皆数週間もすれば完治するようです」
「よかった・・・」
「ですが、一つ問題が」
突然曇った顔をした蒼司に傍にいた翠も動揺する。
「何?またトラブルがあったの?」
「・・・このままだと体育祭を続けられないかもしれない」
「どう言うことですか?鞍馬さんが何か言ってこられたんですか?」
体育祭は午前の部が終わり、午後の部に入ろうとしていた。午後はリレーや騎馬戦など目玉競技が多く、優勝点数も高いため勝負の分かれ目だと思われた。それなのに続けられないとはどう言う事なのか。
傍で興味無さそうにしていた黎も僅かに眼鏡の置くの瞳を光らせた。
それに気付く事無く、蒼司は不安げに見てくる主を見つめると、重い口を開いた。
「今回の騒動で、選手のほとんどが怪我をし、出場出来なくなってしまったんです」
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