「紫織様、お怪我は!?」

 崩れ落ちた少女の傍に駆け寄った蒼司の顔は青ざめ、常には鋭利な光を宿した漆黒の瞳も不安げに揺れている。
 焦ったように怪我は無いかと彼女の体に視線を走らせる少年に、紫織は何とか微笑んだ。

 「だ、大丈夫、です」

 恐怖のため引きつっていた喉で搾り出した声は掠れ、僅かに震えていたが、蒼司は彼女が無傷である事を確認すると、感極まったように顔を引きつらせた。

 「良かった・・・!」

 思わず、と言う風に吐き出された言葉に紫織は瞠目する。
 蒼司は安堵で体の力が抜けたのか、彼女の隣で座り込むと、ゆっくりと右手を伸ばした。

 「・・・あまり、心配をかけないで下さい」

 女性とは違う、筋張った手の甲で頬を撫でられると、そこから火がついたように熱が生まれる。
 目を細めて、優しく微笑む少年を見つめながら、紫織は彼に心配をかけてしまった事を後悔した。彼はかばってくれたのに、自分の意思でそこから抜け出してしまった。危険な目にあいながら、助けようとする彼を制してしまった。

 危険な目には合わないようにする、と言ったのに、それを破った。
 紫織は蒼司にとっては長年の悲願であり、唯一無二の存在である。その彼女が目の前で危険に晒されているのに何も出来なかった事は想像以上の恐怖と苦痛であっただろう。

 「ごめんなさい」

 申し訳なさと情けなさで目じりに涙が浮かぶ。それを知られたくなくて俯きながら謝ると、蒼司は静かに首を横に振った。

 「紫織様がご無事でしたら良いのです、立てますか?」

 言いながら少女の手を引いて立ち上がらせると自身の腕時計に目をやる。本来ならば寮へ案内しているはずが、鞍馬が現れたせいでかなりの時間が経ってしまっていた。

 「このまま校舎に向かいましょう。寮へはまた午後にでもご案内致します」
 「は、はい」

 校舎、と聞き紫織の心臓は再び早鐘を打つ。そこには紫織の登場を心待ちにしている生徒達がいる。彼らに会ってどうすればいいのだろうか。
 紫織には鞍馬と戦う意志は無い。それをどう伝えればいいのだろうか、皆分かってくれるのだろうか。

 「あ、あの・・・蒼司さん」

 繋いだ手に力を込める。

 「先程言ったように、私には鞍馬さんと戦う意志はないんです」
 「はい」
 「はいって・・・あなたはそれでいいんですか?」

 あまりにもあっさりと頷く彼に紫織は焦る。本当は困惑して怒って欲しかったのかもしれない。

 ――だって、勝手な事を言っている。

 これまで何百年も鞍馬と争ってきた九条にとって、鞍馬を破る事は悲願と言っても良い。家臣達もそのためにこれまで戦いに身を投じてきたはずだ。それなのに、突然現れた非力な少女は戦わないと言う。これはあまりに理不尽ではないか。

 「・・・納得しない者も多いでしょうが、和平は誰しも望んでいる事と思います」
 「え?」
 「敵に肉親を殺された者は復讐に燃えておりますが、戦いが無くならなければいつまでたっても憎しみの連鎖は終わりません。それは皆分かっているはずです・・・おそらくは鞍馬側も」

 だが、どうすれば和解出来るのか。別に何百年も前の事件のためにいつまでも敵対し合っているわけではない。だが、あれからお互いに傷つけ合って憎しみは加速していったのだ。
 味方を傷付けられたからやり返す。それの繰り返しをもう気が遠くなるほど続けている。それは酷く愚かな事だが、どうやったら止められるのかが分からない。

 「ですが、仕掛けられたらやらねばなりません。でなければ確実に殺されます」
 「でもそれでは・・・!」
 「そう・・・同じ事です。結局はどちらかが滅びるまで戦いは終わりません」
 「そんな・・・」

 悲しげに唇を振るわせる少女に、少年はいつものように優しく、けれども僅かに厳しさを交えて言った。

 「あなた様が今から踏み入れる場所はそう言う世界なのです」
 「っ・・・」

 羞恥心で目の前が暗くなる。簡単に、そう・・・彼女があまりにも簡単に口にしていた平和は所詮、ただの綺麗事なのだ。今まで安全に暮らしてきた人間の言う世迷い事。
 その現実を目の前でナイフのように突き付けられた気がした。そして、理解する。目の前の少年は――紫織に優しく笑む少年は確実にそちら側の人間なのだと。

 口では言っても、頭では和平など不可能だと蒼司は考えているのだろう。だから、彼女に甘い考えは捨てろと言外で諭しているのだ。


 ――だけど。


 それでも、やはり平和を望むのは・・・戦い続ける事よりも愚かな事だろうか。  











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