10
夜も深まる頃、少女の嗚咽が寝息に変わる。彼女の手を握っていた蒼司はすぐに気付き、
「紫織様?」
そっと声をかけるが、泣きつかれたのか起きる気配は全く無い。だが、このままにしておくわけにもいかない。
蒼司はしばらく思案したのち、繋いでいた手をゆっくりと放すと、そっと右手を彼女の背中、左手を膝の下へと伸ばした。
「失礼致します」
小さく呟くと両腕に力を入れて、少女を抱き上げる。心地よい重みと温もりに眉を寄せた瞬間、今まで眺めていた庭に人気を感じた。
「誰だ?」
紫織を抱く腕に無意識の内に力が入る。殺気は感じないので敵とは思えないが、今は大切な主がいるのだ。用心に越した事はない。
暫く庭を睨んで神経を研ぎ澄ませていたが、闇からゆっくりと月明かりの下に現れた人物を見て、ようやく蒼司は肩の力を抜いた。
「・・・なんのつもりだ、翠」
月光の下に現れたのは、一人の少女だった。闇を思わせる真っ黒なセーラー服を身に纏い、セミロングの薄茶色の髪は柔らかくウェーブがかかっている。
「そんなに怒らなくてもいいじゃない、蒼君」
黒目がちの大きな瞳が楽しそうに細められるのを、少年は憎々しげに見やる。
「その呼び方は止めろと言っているだろう」
「昔から呼んでいたから今更無理よ。それよりも・・・その子ね?」
近付いて、不機嫌そうに眉間に皺を寄せる蒼司の腕の中に眠る、あどけない少女を覗き込む。
穢れの無いその寝顔は無垢そのもので、彼女にこれから訪れるであろう苦難を思うと不安になる。果たして彼女に九条家を背負って立つ事は出来るのだろうかと。
「・・・紫織様は大丈夫だ。か弱いが、芯はしっかりしておられる」
「だけど、それだけじゃ生き残れないわ。これから蒼君が剣道を教えるのでしょう?」
「ああ。普段は俺がお守りするが、剣術はあるに越した事はない」
「私も銃なら教えてあげられるわ」
言って、どこから取り出したのか、狙撃銃を片手にニコリと微笑む少女を横目に蒼司は憮然とする。
「鉄砲など・・・邪道だ。日本刀を使えと言っているだろう」
聞き飽きた台詞に、翠は苦笑する。彼とは同じ年で幼馴染であり、お互い気兼ねがなかった。
「相変わらずねぇ・・・それより、姫様、このままじゃ風邪をひいてしまうわよ」
小さなくしゃみに気付いて翠が言うや否や、蒼司は足早に寝室へ紫織を連れて行く。垣間見えた、少し焦ったような顔に再び少女の顔に笑みが浮かぶ。
長年傍にいたので、彼がどれほど紫織を待ち望んでいたのか良く知っていた。武士を意識しているのか、感情を押し殺して表情をあまり外に出さなかった蒼司が紫織の存在で少年らしさを取り戻せるならば幼馴染としてこんなに嬉しい事はない。
「・・・良かったわね、蒼君」
紫織を寝室に寝かし付け、戻って来た幼馴染に微笑むと、怪訝な顔をされた。
「何の事だ。それよりも、こんな時間に本家に来たんだ、学校で何かあったのか」
今日は一色学園の始業式だった。蒼司は紫織を迎えに行く任務のため学校には行けなかったが、翠はきちんと出席したはずだ。一日行けなかっただけで何か問題でも起こったのだろうか。
「今日、久我の息子にも会ったんだけれど・・・どうも心配なのよね」
「確か、名は黎(れい)と言ったな。何か問題でもあるのか」
「賢そうで年の割りに落ち着いているけど・・・」
言いながら、今日会った怜悧そうな少年を思い浮かべる。彼とは初対面ではなかったが、幼い時に会っただけだったのでほとんど記憶は無い。
一色学園で同じ小等部、中等部に通っていたはずであるが、二歳差は大きく面識はほとんど無かった。高等部と違って小等部、中等部は平和で、争いもあまりなかったため、御三家だからと言ってまとまる事も無かったのだ。
久我家の少年は15歳とは思えない大人びた雰囲気と声変わりしたての少し低めの声がアンバランスに思えた。
紫織の事は聞いていたのか少し話題に上ったが、あの時に浮かべた不満そうな表情が気になった。
「・・・多分、時期当主が女である事が気に入らないんだと思うわ。久我家は昔から保守的だったでしょう?」
「そうか・・・明日顔見せをすると言うのに・・・」
「姫様を前にして直接どうこうはしないと思うけど・・・分からないわね」
「分かった。配慮しよう」
「私も注意しておくわ。・・・それから、鞍馬の事だけど」
鞍馬、と翠が口にした瞬間、蒼司の表情が硬く強張る。
「奴が、どうかしたのか」
「珍しく、本人じきじきのお出ましがあったわ。1年生の何人かが怪我をしてしまって」
「何だと?」
「姫様が入学してくる事も知っているようだったわ。それの前祝い、なんて言っちゃって・・・」
「・・・相変わらずふざけた奴だ」
「明日から九条、鞍馬両家が揃う事になるわ。今までよりも抗争は激化するとみて間違いないわね」
神妙に眉を寄せる翠から視線を外し、紫織が寝ている寝室を見る蒼司の闇を映した瞳に強い光が浮かぶ。
夜が、明けようとしていた。
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