9
トクトクと近くで心地よい鼓動が聞こえてくる。シーツとは違う温もりに包まれる――心地良い。
今、何時だろうか。確か夜だったはずだ。月も出ていた。なのにどうしてこんなにも安らかな気持ちでいられるのだろう。こんな気持ちは呪いを受ける前も感じた事はなかった。
トクントクン。
また、だ。本当になんて・・・・・心地よい。こんな気持ちにさせるお前は一体――?
「・・・ん・・」
輝くルビーが朝日を受けて輝きを取り戻す。頭を動かすとプラチナの髪がサラサラと動いて白い貌に降り注いだ。
身を起そうとしたが体に何かが絡み付いている事に気付いてぎょっとする。
「ぬぁ・・・っ!?」
すぅすぅと寝息を立てているのはフィードの少女であった。ヴェルは頭が混乱しながらもベッドから降りて聖から距離を取ろうとした。
だが離れようとするヴェルを夢の中でも感じ取ったのか、華奢な腕を掴んで再びシーツの海に引きずりこもうとする。
「!?ぶ、無礼者!何をするのじゃ!放さぬか!」
うろたえて彼女を起そうとしたがその顔には疲れが色濃く残っており頬に傷も見られたので、ヴェルは動きを止めた。
「この傷・・」
もう出血はしていなかったが、血が固まって頬にこびり付いていた。
「・・余がやったのか・・」
かすかではあるが覚えている。確かにこの傷は自分が付けたものであると。
傷を見て、突然妙な胸騒ぎを感じて焦ったが、なぜ焦るのかが理解出来ない。
だが、どうにもこびり付く血が気に掛かり、ゴシゴシと己の服が汚れるのも気にせずに擦っていると、聖が小さく呻いて体をよじらせた。
「・・・っ!」
焦って手をどけると聖は寝返りをうっただけで、再び深い夢の世界へ旅立っていった。寝返りをした事でヴェルは解放され、ようやくベッドから降りる事が出来た。
今が朝なのか昼なのかも分からず窓辺に近寄ろうと振り返ったが、そこに窓はなく真っ青な空が広がるばかりであった。
「何じゃこれは・・・」
窓は完全に大破していた。粉々に割れたガラスが部屋の中にも散らばっており無残な姿を際立たせている。
「・・これも・・余、か」
正直あまり記憶はないが暴走の末なのだろう。これでまた部屋が使えなくなったと溜息を吐きつつ部屋を出て行こうとしたが、
「・・・・・・」
広い部屋にポツンとあるベッドの上で一人眠る少女。あんなに蔑んでいたフィードであるのに触られて不快感は感じなかった。むしろ心地よさを感じていた。
こんな事はあってはならない事だった。フィードに安らぎを感じるなど。
口中でありえぬ、と呟きながらもそろそろとベッドに近付いて指先で彼女に触れてみる。
――温かい。触れているとその温もりが伝わってきてホッと体の力が抜ける。ノーブルに比べてフィードは体温が高いのだろうか。
考えても分かるはずもない。もうこの世界にフィードは目の前で眠る少女しかいないのだから。何千、何万と言うフィードを手に掛けながらも一度も彼らの暖かみに触れた事などなかった。
ただ鋭い爪で掻っ切って血潮を浴びていただけだ。
低俗で醜い野蛮な生き物だと思っていたのに。
「・・ほんに不思議な娘じゃ・・・聖・・」
他のフィードと違うからこそ、その血で呪いが解けるのかもしれない。
首筋に移動させると指先から彼女の命の息吹が感じられる――何日か後には己の牙が突きたてられる場所だ。
ゴクリ、と喉が大きく鳴った。
目が首筋に釘付けになる。喉の渇きが激しい。
今は昼間でヴェルは呪いを受けてフィードと同様の存在となっている。だが、本能は押さえきれない。微かに漂う血の香りもうっとりと少年を狂わせていく。
「・・・ヴェル?」
「!!?」
首筋に息がかかり、聖は目を覚ます。霞がかかる視界いっぱいに映る美貌は心なしか驚きに歪んでいるようだった。
「・・どうしたの?」
なぜここにヴェルがいるのか、昨夜何が起こったのか、今だ寝ぼける聖は何の疑問にも思わず起き上がると小首を傾げた。
ヴェルは自分が今何をしようとしていたのか、ようやく思い至って愕然としていた。
呪いを受ける前でさえこのような吸血欲求はなかった。フィード達はそうは思っていなかったようだがノーブル達は昔と違い日常的に血を必要としていない。大量出血など体内の血が大量に奪われた時だけ、吸血本能が掻きたてられるのだ。
それなのに大量出血もしていない、ノーブルでさえないはずの今のヴェルが一瞬我を失うなど・・・
「・・呪いの・・進行か」
「何?」
「・・何でもない・・それよりそなた、傷はもう良いのか」
「傷・・・あ・・!!」
頬に触れてようやく記憶が蘇ってきた。思わずベッドの端に逃げる聖を見てヴェルは苦笑する。
「外を見てみよ・・月は出ておらぬ・・余はもう、余じゃ」
心なしか悲しそうに見えたのは聖の気のせいではないはずだ。警戒をしつつベッドの上を移動して少年の傍に寄って様子を窺う。
傷ついたように目を伏せると長い睫毛が被さり表情が分からなくなる。昨夜と同一人物とは思えない態度に困惑するが小さな子が沈んでいるのを見ると何とかして慰めなくては、と言う気になってしまうのは彼女の中の母性本能がなせる技か。
ヴェルも彼女の視線に気付き顔を上げると目を細めた。
「分かっておるのか?そなた、余に傷付けられたのであろう。余自身、自分をコントロール出来ぬ・・恐ろしくはないのか」
「・・今までは信じてないって言い聞かせてたけど、あんなもの見せられるともうそんな事言ってられない・・正直、あなたが怖いし恐ろしいわ」
「・・・やはり、そなたは変わっておる」
「それはもう聞いたわよ・・そんな事言われても嬉しくも何ともないわ」
ムッとしてそっぽを向くとヴェルはますます目を細めると楽しげに言った。
「フィードとは思えぬ度胸の良さじゃ・・聖」
「え・・私の名前・・」
思わず怒る事も忘れてヴェルを見ると、彼は微笑を浮かべていた。その顔があまりに大人っぽく甘やかで、前に見た青年の肖像画が脳裏を過ぎり、聖は思わず顔を背けていた。
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