「・・城から出てしまったか・・不味いな」

 冷静に、少しも焦っていない様子の青年に対し少女は今にも倒れそうなほど混乱していた。血だらけの青年を横にして、目の前には月に見入られ化け物と化した少年がいる。

 「・・・神様・・」

 泣きそうになりながら無意識の内に胸元に揺れる十字架を握り締める。今にも食い殺さんばかりの殺気を放つヴェルの瞳から逃れなければと脳内で警鐘を鳴らす。

 だが、怯える少女を面白そうに目を細めて見やったヴェルはゆっくりと立ち上がると一歩足を踏み出した。

 「!!?」

 瞬間、マジックのように視界から消え去ってしまい聖は慌てて左右を見渡したがそこにあるのは闇ばかりで他に何も見当たらない。
 クラウンの上だと言う声に咄嗟に仰いだ先には相変わらず禍々しい月と小さな黒い影。

 「・・・え?」
 「下がれ!」

 呆けていたところを鋭い声が突き刺さり、驚いてよろめいた刹那に頬にピリリと痛みが走る。すぐに熱を持ち始めたそこを手で触れるとどろりと流れ出す何かが絡み付いてきた。
 目をやると、闇の世界でも月明かりに照らされて鮮やかな赤が映った。

 ――これは・・・・血。

 「・・・あ・・あぁ・・」

 頭で認識した瞬間、それは恐怖へとすり替わった。今までこんな怪我はした事がない。せいぜい転んで膝を擦りむくくらいだった。こんな、血が滴るほどの怪我なんて・・・。

 頬から流れる血の匂いに反応したのかヴェルが鋭い牙を口元から覗かせて今度はゆっくりと獲物を追い詰めるように聖に近付いて来る。

 狂気に色濃く支配される少年の瞳と交錯した瞬間、体が凍りついたように動かなくなってしまった。逃げなければ殺されると変わらず警鐘は鳴り続けているがどうしても恐怖で思うように体が動いてくれない。

 満月の夜までは殺される事はないだろうと思っていたが、ヴェルが正気でない今その可能性は大いにありえることだ。

 「・・・ヴェ・・ル・・」
 「・・・血・・」

 名前を呼んでも何も反応は返ってこない。呼び捨てにするな、と不機嫌そうに口を尖らせてくれた方がどれだけいいだろう、と聖は絶望の涙を流す。

 「血・・血・・」

 涙と流れ出る血が交わり、地面に染みを作るのを間近で見ながら凶器となる長い爪を少女に掲げる。

 もう駄目だ、と反射的に目を堅く閉じるが何時までも痛みはやってはこない。状況を確認しようと目を開けようとした瞬間、
 「ひゃっ・・!?」

 軽い重みが体に圧し掛かってきて素っ頓狂な声を上げてしまった。ヴェルが聖に圧し掛かってきたのだ、ただし意識の無い状態で。
 怪しく光るルビーの瞳は闇に閉ざされ、昼間のように穏やかな子供のような寝顔を浮かべるヴェルに混乱しつつも命の心配は無くなったと大きく息を吐く。ようやく周りを冷静に見れるようになったのかヴェルの背後にクラウンが立っている事にようやく気付いた。

 「・・これでしばらくは起きないはずだ・・早く月が見えない所に」

 月が出ている以上、例え地下にいたとしても関係ないのだが、直接月明かりを浴びるよりも幾分ヴェルの苦しみも和らぐのだ。
 このように無理に意識を失わせる事は珍しい事だった。クラウン自体それをするとかなりの重傷を負う事は必至だ。そしてヴェルは気を失わせるような隙はそうそう作らないのだから。

 今回は運が良かったのか、ヴェルは聖にばかり気をとられてクラウンの存在をすっかり忘れていたようであった。いつもならば誰であろうとすぐさまその刃にかけるのに、時間をかけて彼女に近付いたのも不思議だ。

 「・・あの?」

 考えながら聖をじっと見詰めていたらしい。少女が戸惑いながら青年に問うと男はすぐに顔を背けたが無表情の顔にもどこか戸惑いが見て取れる。

 ますます首を傾げながらも今は早くヴェルを城の中に入れなければと思い身を起そうとしたが、ヴェルが聖の腕を掴んで離さない。少年とは言え、全体重がかけられては立ち上がる事も出来ない。
 クラウンに助けを求めるように視線を送るとヴェルを離そうと試みてくれたが子供とは思えない力で掴んでいるので無理に動かすと少女の方に激痛が走ってしまう。

 何度か試した後、無理だと判断したのかクラウンは突然聖の体をヴェルごと持ち上げた。

 「えぇっ、ちょっと・・・」
 「・・このままヴェルの部屋に行く」
 「あの、このままって・・離してくれないんですけど・・」
 「我慢しろ・・行くぞ」

 ヴェルの部屋と言えばほぼ最上階である。このまま階段を登っていくのか、と聞こうとしたが聖は肝心な事を忘れていた。
 ここは異世界で彼らは人ではない――ノーブルと呼ばれるヴァンパイアもどきなのだ。

 行く、と言う言葉そのままにクラウンはヴェルの部屋に行こうとした。ただし階段は使わずに、だ。

 「いやぁぁぁぁぁ!!」

 深く沈んだと思った矢先、勢い良く飛び上がる男の体にしがみ付く事しか出来なかった。絶叫マシーンはどちらかと言うと好きな方である聖であったがこれは今まで乗ったどんな乗り物より恐ろしかった。
 視界を閉ざし下を見ないようにするが、体に伝わる振動は感じずにはいられない。時折ドン、と重く伝わる。何が起こっているか確認する事など勿論出来るはずもなく――

 「・・着いた」

 次に目を開けた時には既にヴェルの部屋の中であった。かかった時間は正確には数えていないが10秒ほどではないだろうか。

 「・・・あ・・?」
 「・・・ほら」
 「え、きゃぁ!」

 ベッドに放り投げられて体勢を立て直そうともがきながら、聖はどこか苦悩を浮かべているクラウンを見る。

 「・・・あなた達って空も飛べるの?」
 「・・飛べない。だからこうして跳んで来ただろう」

 本当に文字通り、跳んで来たのだ。人間とは懸け離れた跳躍力があるのだろう、時折城の壁を蹴ってここまで階段を使わずに行けたのだ。

 ありえない、と愕然としながらそのまま部屋を出て行こうとするクラウンの背中に声をぶつける。

 「あの?私はどうすれば・・」

 まだヴェルは聖の腕を離そうとしない。嫌な予感が頭を過ぎりつつ、淡い期待を込めた少女のそれを青年はいとも簡単に叩きのめしてくれた。

 「・・・そのままヴェルと寝るといい」
 「嘘でしょう?起きたりしたらまた襲われるんじゃ・・」
 「当分起きないだろう・・・後その血は止めておけ」

 じゃぁ止血出来るものを、と反論しようとしたが男は既にその場から消え去っており、文句も虚しくのどの奥に閉じ込められた。

 「どうしろって言うのよ・・」

 半分涙声の可哀想な少女は頬に手をあてながら安らかな寝息をたてる少年を恨めしく睨むと諦めの溜息を盛大に吐いた。











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