クラウンは無表情に凍り付いていた顔を僅かに動かし、眠い眠いと言いながら突然部屋に入ってきた美貌の少年を見た。

 「・・暇つぶしに行ったんじゃないのか」
 「暇つぶしをしたはずが逆に暇になってしまったのじゃ」

 つまらぬと零してそのままフラフラと人が3人は眠れるであろう豪勢なベッドに飛び込んだ。

 「・・寝るのか」
 「うむ・・あの娘なら放っておいてもかまわぬだろう・・何かあったら・・起して・・・・」

 ゆるゆると重力に従い、瞼が降り、ルビー色の瞳が闇の中に隠された次の瞬間にはもう小さな寝息を立てていた。

 呆然と様子を見ていた青年は一息吐くとベッドに近寄り、そっと毛布をかけてやる。かすかな重みに少し瞼が動いたがよほど眠たかったのか、起きる様子もなく微笑すら浮かべそうな安らかな寝顔であった。

 一瞬彼が本当にただの子供のように見えてクラウンは首を横に振った――忘れてはいけない。少年の姿に惑わされては・・・。


 「・・・君が本当に愛しくて・・憎いよ・・・ヴェル」

 小さな告白はしかし、夢の住人となった少年に聞こえるはずはなかった。









 ヴェルが夢の世界に入ってしばらく経ち、聖はようやく地獄の螺旋階段から解放されようとしていた。

 「出口だわ・・・!」

 ようやく解放されるのだと思うと腰が抜けたようにその場に座り込んでしまう。足はズキズキと痛み、清潔感の表れであったはずのシスター調の制服はすっかり薄汚れていた。濃紺と言う色に助けられているが、これが白だったらと思うとぞっとする。

 少し休もうかとも考えたが、また先ほどのようにヴェルが来ては堪らない。寝ているはずの今がチャンスだと急いだのだから。

 「よし・・いざ!」

 声を出して己を奮い立たせようとしてもどうしても手が震えてしまう。この扉を開けてしまったらもう後には戻れないのだ。
 もしかしたら日本、いや地球で見る事の出来ない世界が広がっているかもしれない。そうしたらもうここが異世界だと認めるしかない。現実を突きつけられるのが怖い――死ぬしか道はないのだと思い知りたくない。

 迷い、扉から数歩離れるが城に戻っても同じ事だ。むしろ城にずっと引きこもっていては何の希望もないだろう。では、せめて少しでも希望のある方に懸けたいと思う。あの少年が約束を守るかどうかは別として。

 「・・・神様・・!」

 不思議と最近、大嫌いだった神頼みをよくするようになってしまった。信仰心の欠片もないただの自分勝手に過ぎないのだが、胸に光る十字架を見ると安心するのは事実となっていた。

 心の中でもう一度祈ってから思い切り扉を押すと、

 「・・・え・・・?」

 今まで光の入らない場所にいたため時間が分からなかったが、赤々とした太陽が沈むのを目に留め、もうすぐ夜なのだと知る。
 引き返そうか迷うがどこか懐かしい香りが鼻腔をくすぐった瞬間歓喜に目を潤ませていた。

 眼前に広がるのはコウモリの飛び交う森でも白骨が転がっているわけでもない、ごく普通の自然であった。青々とした草は風にそよぎ、どこからか川の流れる音が聞こえてくる。

 嬉しくなって駆け出した聖であったが、

 「・・・橋?」

 それは橋であったが、少女が一般的に橋だと思っている物とはかなりの違いがあった。木製で、しかもあちこち痛んでひび割れている。だが、極めつけは橋ではなく、橋の下であった。
 川の流れの元はこれであったのか、と思うと同時に本能的に後ずさる。橋は崖に架かっていた。そして崖の下に細く川が流れている。

 「・・・・・・」

 歓喜の念が急速に萎んでいく。こんな橋も崖も聖にとっては非現実的なものだった。しかもどうやら橋を渡らなければ街へはいけないようだ。王の住む城なのである程度街と離れているだろうとは思っていたが、まさか崖に囲まれているとは考えもしなかった。

 恐る恐る崖から再び橋に目をやる。どう見ても渡るには心もとない。しかも落ちたら間違いなく命がない。




 「月が・・・!」

 迷っている内に何時の間にか太陽は姿を隠し、月が怪しく顔を覗かせていた。

 満月に少しずつ近付いているのだろう。前に見た時より僅かにその面積を増やしている。相変わらずゾッとするほどの大きさと明るさだ。

 夜は危険であると、ヴェルからも言われ聖自身そうなのだろうと思う。それにこのままここにいても橋を渡れるか疑問だ。

 大人しく城に戻ろうと橋に踵を返した刹那、微かにガラスの割れる音が聞こえてきた。
 空耳かな、と思い気にもとめなかったがパラパラと何か細かい破片が上から降ってくると流石に気のせいではないと月の眩しさに目を細めながら見上げて聖は思わず口を開けた。

 何か、落ちて来る。その何かが人であると分かるのにそう時間はかからなかった。

 驚きのあまり悲鳴も上げられない少女の目の前にそれは落ちた。表現しがたい音を立てて落ちてきた人はぐったりと動く気配を見せない。当たり前だ、普通ならもう命はない。
 だが、それは普通の人間の場合で、即死したはずの人影はゆっくりと起き上がると少し咳き込みながらも立ち上がったのだ。

 「・・・城から出たのか・・夜は危険だと・・」
 「そ、それよりあなた・・今・・・っ」
 「・・あぁ・・ヴェルにやられて・・・!!」

 瞬間、聖は初めてクラウンの無表情が崩れるのを見た。青年はすらりと伸びた腕で聖の華奢な体を横抱きにしてそのまま倒れこんだ。
 痛みはあまりなかったが驚き、文句の一つでも言おうとしたが、ドスンと言う地響きと共に先程まで自分の立っていた場所がひび割れている事に気付きゾッとした。

 目を凝らさなくても月明かりのおかげで何が起こっているのかはっきりと分かってしまった。

 「・・・ヴェル・・」

 そこに立っていたのはあの夜と同じ、狂気に支配された哀れな化け物であった。  











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