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 聖が帰らないと告げた瞬間、横たわっていたヴェルの体が突然光り始めた。

 「えっえっ!?」

 彼の体から発光しているのかと思い呆然としたが、光が空に伸びているのに従って顔を上げて気付く。

 不気味に紅く色付いた満月の光がヴェルにだけ降り注いでいるではないか。まるで彼のためだけにそこにあるように、暗闇の中、彼の体だけ明るく照らす奇妙さに自然と身震いがした。

 すると、光に触発されたように青年の瞼がゆっくりと持ち上がり、ルビーの瞳が顔を覗かせた。

 聖は胸を撫で下ろして声をかけようとしたが、

 「う・・・ぐっあぁっ・・・!」

 ヴェルは突然うめき声を上げ、苦しげにのた打ち回ったのだ。見開かれた目は燃えるように紅く、月光を浴びて怪しい輝きを放っていた。

 いつか見た、我を失くした少年の姿が少女の脳裏によぎるが、今の青年の苦しみ方は尋常ではなかった。

 苦しむ青年を目の前にただ見ているだけしか出来ない。咄嗟にクラウンに助けを求めようと振り返るが、彼は力尽きたようにその場に倒れ、意識を失っているようだった。

 「やだ・・・ど、どうすれば・・・」

 空には見たことも無いほど大きな月。地には酷く苦しんでもがく男。辺りは絶望するほど真っ暗で何も見えない。

 ――今なら帰れるわよ。

 またあの声だ。耳元で聞こえる、声。誰なのかは分からないが、いつも聖を惑わせる。

 ――早くしないと帰れなくなるわ。いいの?一生帰れなくても。

 一生帰れない?このままずっとこの世界に・・・?

 ――そうよ。あなたには無理でしょう?簡単に人が死ぬこんな世界。嫌でしょう?

 これまで見てきた数多の死体。日本に暮らしていたらきっと一生見る事はなかったもの。そんな世界、絶対慣れる事はないだろう。

 ――さぁ、帰りましょう。簡単よ。あの部屋に戻ってまた水の中に飛び込めばいい。

 そうすれば、またいつもの平和な日常が帰って来る?つまらなくて退屈でも、平和な、血なんて見なくてもいい世界。

 ――彼の事は忘れてまたいつもの生活に戻れるわ。

 忘れる?彼、ヴェルを記憶から消す?・・・そんな事本当に出来るのだろうか。いや、初めから答えなんて決まっている。出来るならまたこの世界にやって来たりしない。それに、戻って来る時決めたはず・・・もう一度ヴェルに会いたいと。そして今だって・・・。

 「・・・戻らない。いいえ、戻れない」

 ――え?

 「ヴェルが苦しんでいても何も出来ないけど、だけど逃げたくない。向き合いたい。呪いを解きたいの」

 ――・・・・・。

 「だって私はこんなにも・・こんなにも彼の事が・・・」

 ゆっくりとヴェルに近付くと、もがいて振り回される彼の手の、その鋭い爪にあちこち傷付けられる。
 だけど、彼の苦しみに比べれば。だって私には何も出来ないから。彼を抱きしめる事しか出来ないから。

 「あぁぁぁ!ぐぁぁっ・・・!」
 「好きだから!」

 力いっぱい抱き締めると、ふいに振り回していた手が止まった。

 「必要ないって言われても、私はあなたに会いたかった。今度は私が助けてあげたかった・・・だって、あなたが好きだから」

 私は神様ではなく、魔王様に恋をしたんだから。

 「だから、私のこの想いで、ヴェルの呪いを解くの!」



 ――その想い、確かに受け取ったわ。



 「え?今の・・・」
 「聖」

 ふいに大きな腕の中に包まれて、聖は先程の声の意味を考える事が出来なくなってしまった。
 いつのまにかヴェルの叫びは止んでおり、苦しんでいたはずが今は聖を抱き締め返しているではないか。

 「ヴェル?もう苦しくないの?」
 「あぁ。今まで苦しかったのが嘘のように清清しい気分じゃ」

 少し掠れた声が先程までの苦しみが嘘では無い事を証明していた。だが、今のヴェルは微笑みすら浮かべている。

 「一体どう言う事?」


 ――呪いが解けたのよ。


 あの声と共に目の前に金色の光が現れる。はっきりと見えないが、ぼんやりと人の、女性の形をしているのだと分かった。

 「誰じゃ!?呪いが解けたとは誠の事か!?」

 警戒心を露に、ヴェルが聖を守るように後ろに押しやると相手を睨みつける。
 しかし、誰もが恐怖に慄くその視線をものともせず、光は僅かに揺れた。どうやら笑っているらしい。

 ――私が何者か?聞いたら腰を抜かすわよ?・・・私はあなたに呪いをかけた神よ。

 「なっ!?」

 その言葉でヴェルは本当に腰を抜かしたらしく、先程の威勢のよさはどこへやら、呆けて座り込んでしまった。
 言葉も出ないらしい青年の代わりに、彼より少しばかり冷静な聖が口を開く。

 「呪いは私の血で解けるんじゃないんですね?」

 ――もし血を飲んでいればその瞬間命を落としていたわね。

 「どういう事ですか!?」

 ――こちらの言葉では、呪いは召還したフィードの血で解けると書かれているけれど、それは嘘よ。本に従って血を吸えば即座に命が尽きるよう私が呪いをかけたから。

 「・・・そして真実は日本語・・私にだけ読める言葉で書いた?」

 ――そう。呪いを解く本当の条件は・・・


 「フィードと心を通わせる事、ですね」

 光が頷いたように揺れたのを見た瞬間、聖は大きく息を吐いた。


 今、ようやく分かった。

 聖がいると、ヴェルは夜、呪いで苦しまなかった。
 聖が彼を受け入れようとしたら、元の青年の姿に戻り、拒否の心を見せると再び少年の姿に、呪いを受けた姿になった。

 少しずつ心を通わせる事で、少しずつ呪いが解かれていたのだ。そして、満月の今夜、ヴェルの呪いは完全に解かれた――二人の心が真実結び合ったから。


 ヴェルの呪いはフィードを殺すためではなく、フィードを愛するためにかけられたものだったのだ。  











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