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 「ぷはっ!」

 聖は水面に顔を出すと、大きく咳き込みながら空気を求めた。
 最初に連れて来られた時は意識を失ってしまったが、今度は酸欠で朦朧としながらも意識はあった。

 濡れてまとわり付く服に眉を寄せながら水から出ると辺りを見回す。

 今、聖が出てきたのは学園にあった噴水ではなく、人が一人なんとか入れるほどの小さな池からだった。

 「・・・部屋の中?」

 暗闇の中、月明かりのみを頼りにして分かった事だが、どうやら屋内であるようだった。四方を壁に囲まれた圧迫感のある部屋に小さな池だけがぽつんとある。

 ここはどこだろうか。城の中なのか。

 不安に思いながらも濡れた裸足でピチャピチャと音を立てながら一つだけある窓に近寄って、少女は息が止まった。

 「月が・・・!」

 丸々と太った大きな月が星一つ無い暗闇の中で不気味なほどの存在感を出していた――今夜は満月である。

 満月なんて。もう遅いのかもしれない、と言う焦りから背筋に震えが走るが、

 「怯えていたって始まらないわ!何のためにここまで来たの」

 何とか自分を叱咤すると目を凝らしながらドアを探した。

 そして恐る恐るドアノブに手をかけて回すと――

 「・・・あれ?」

 何かにひっかかっているのか、いくら押してもドアは開かなかった。
 何度か力を込めて押していると、少しずつ開いていくドアに安堵したのもつかの間、隙間から見えたものに思わず悲鳴が漏れた。

 赤く染められた手。視線をずらしていくと、同じく真っ赤な上半身が見えた。

 「――――っ!!?」

 再び上がりそうになる悲鳴を何とか飲み込むと、数歩後ずさる。
 だが、この部屋から出るためにはこのドアを開けなければならない。それに、血溜まりに倒れる人物が誰なのかを確かめなけば・・・。

 深呼吸をしてから、意を決したように体重をかけてドアを開ける。そして最悪の状況を想像しながら目線を下にやった。

 うつ伏せで倒れている男は既に息は無く、ピクリとも動かない。背中を鋭い刃物で裂かれたような痕が痛ましい。うつぶせのために顔は分からなかったが、栗色の髪から彼はヴェルではない事だけは分かった。

 不謹慎だがホッとしながら顔を上げると今度こそ聖は完全に凍り付いた。

 長い廊下を転々と死体が転がっていたのだ。ホラー映画では見慣れた光景も実際に見るのではわけが違う。
 今まで死体など勿論目にした事はない。全身の力が抜けて膝から崩れ落ち、自然と目から涙が溢れる。

 ――これは、何?今私が見たものは一体何なの?

 立て続けにショックな事が起こり、完全に意識がどこかに飛んでしまった。
 茫然自失の状態で一体どのくらいそうしていたのだろうか。聖の意識を取り戻す声が微かに少女の鼓膜を打った。

 「ヴェル!?」

 ハッと顔を上げても求める姿はなく、ただ物言わぬ死体があるだけだった。だが、確かに先ほどの声は――

 「ヴェル・・・!」

 立ち上がると走り出す。あんなにも恐怖だった死体なんて目にもくれず、ただ走る。

 お願いだから。どうか生きていて。もう一度、生きてあなたに。









 「はぁっ、はぁ・・・余は・・・余は・・・」

 満月の光を受けながら、青年の姿をしたヴェルの鋭く尖った爪からは留まることなく血が滴り落ちる。
 ルビーの瞳はどす黒く光りながら頼りなく揺れ、荒く吐き出された真っ赤に熟れた口元からは牙がのぞく。

 彼の周りは血の海になっており、数人の男が呻きながら倒れ伏していた。彼らは全員守るべき国民である。それなのにその国民をヴェル自身が手に掛けた。

 「どうしてこのような事に・・・」


 あの時、確かにクラウンに殺されてもいいと覚悟をした。だが、そうはならなかった。クラウンが振り上げた剣はヴェルではなく、彼の背後に向かって投げられた。

 「ぐあぁ!」

 悲鳴を上げて倒れたのはヴェルに謀反を起こす者達であった。長年国民に姿を見せない皇帝に疑惑は広まり、様々な噂が飛び交った。それを抑えられるだけの力など、子供で力を失っていた彼にあるはずも無かった。

 満月に狂わされたのはヴェルだけではない。血が騒いだ彼らの矛先が長年疑惑の中にいた皇帝に向けられたのだ。

 無力の皇帝はただ傍らで眠る少女だけは守ろうと必死に掻き抱いた。もうどうなっても良かった。彼女さえ生きていれば。

 「・・・彼女を連れて逃げろ」

 向けられる刃から二人を守ったのは先程までヴェルを殺そうとしていたクラウンであった。

 「なっ」
 「あなたを殺すのは私だ」

 短く言うと敵に向かって飛び出す男にヴェルは混乱しながらも聖を抱えてある部屋に向かって走り出した。

 そして――

 「聖。愛しておる・・・さよならじゃ」

 最期に、と薄く開いた唇に口付けると水の中に静かに華奢な体を沈めた。


 これでもう悔いはないはずだった。もう死んでもいいと。部屋から出ると待ち構えていた男達に抵抗などしないはずだった。

 だが、気が付くと周りは血の海になっていた。


 「余は一体何を・・・」

 記憶が曖昧で何も覚えていない。ただ、酷く喉が渇いていた。
 満月の煌々とした灯りの下、血がたぎるようだ。今傍に誰か来たらきっと・・・


 「ヴェル!!」


 きっと――――


 「・・・ひ、じり?」


 殺してしまう。











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