20
何回目とも分からない寝返りをうって、聖は小さく息を吐いた。
「眠れない・・・」
忘れよう忘れようと思うほどに、瞼の裏にヴェルの顔が浮かんで彼女の目を覚めさせる。
今頃どうしているんだろう、と考えると胸が締め付けられるようで、セイクリードに行けと体が突き動かされる。
「ヴェル・・・」
彼の名を呟いた刹那、夜の帳が落ちていた部屋に光が溢れた。
何事かと起き上がり、光源を探すと机の上に置いてあった本からである事が分かった。
「何これ・・・」
呆然としながらも、不思議に恐怖は感じなかった。それどころか、気がつくと光に誘われるようにベッドから抜け出すと机に向かって歩みを進めていたのだ。
――何なの?
自分の行動に戸惑いながらも足は止まらない。
机の前まで来ると、本に手を伸ばす。そして指先が触れた瞬間。
――その代わりと言ってはなんだが、聖だけは元の世界に返してくれぬか。
聞き覚えのある、焦がれて止まないヴェルの声が鼓膜を打ち、脳裏に鮮やかなプラチナブロンドが踊った。
――聖は世の命よりも大切なだけじゃ。
そうして振り上げられる刃と静かに目を閉じる青年。
――止めて・・・!!ヴェル!!
あぁどうして忘れていたのだろう。こんなにも大切な事を。あぁどうして思い出してしまったのだろう。宙に舞う血飛沫を。
聖がこうして元の世界にいると言う事は、ヴェルはもうこの世にいないのではないか。最後に混濁した意識の中で見た鮮やかな赤は彼の血の色ではないか。
でも・・・!!
――聖。愛しておる・・・さよならじゃ。
さよならなんて嫌!ヴェル・・・私はもう一度あなたに会いたい・・・!
噴水のように溢れ上がった思いは止まらない。気が付くと部屋を飛び出していた。
もう消灯時間は過ぎている。寮から抜け出したらどんな罰が待っているか分からない。だが、その時聖は退学になっても良いとすら考えていた。なぜなら、彼女の求める人は神とは真逆にいる悪の王だから。
外へ出るとブルリと身震いがした――あぁそう言えばパジャマのままだった。そして酷く足が痛い・・・靴を履くのを忘れていた。
普段の彼女なら考えられない失敗だ。だが、カーディガンと靴を取りに戻る余裕などなかった。早く、一刻も早く彼に会いたい。彼女を支配する感情は本能にも似た熱情。
運動不足で息を切らせながらたどり着いた場所は、庭の噴水だった。全ての始まりの場所。この噴水からヴェルに呼ばれてセイクリードへ旅立った。戻るとしたらここでしか考えられなかった。
「ヴェル!ヴェル聞こえている!?生きているなら返事をして!」
水しぶきがかかるのも厭わずに噴水を覗き込む。だが、そこには月明かりの下、焦燥感を露にした自分の姿しか見えなかった。
「どうして・・・?もう一度連れて行ってよ・・・!」
水の中に腕を、足を、体を入れる。寒さで震えが走っても止められない。
「ヴェルに会いたいの・・・どうすればいいの!?私の血だったらいくらでもあげるから・・・!」
噴水の淵に拳を何度もぶつけると、血がじわりと滲み出る。痛みからか悔しさからか、涙が零れた。
「お願いよ・・・このままさよならなんて嫌なの・・・」
膝から崩れ落ちる――寒い。手が痛い。だけど、何よりも痛むのはその心だった。
「私、まだ何も伝えてないの・・・」
――愛しておる。
「伝えなきゃいけないのに・・・」
少年の時は可愛い弟みたいだった。化け物と言われても愛くるしい姿に自然と心が奪われた。だけどそれが突然大人になって、とても戸惑った。子供に戻っても、もう彼を弟みたいには見れなくなっていて。
恥ずかしくて、どうしたらいいのか分からなくて。でもこんな気持ち気付きたくなくて。だって、私は彼の餌だったから。
こんな事思っちゃいけない。彼は敵なんだと言い聞かせても、柔らかく微笑む姿に目を奪われた。彼のためなら、なんて思ってしまった。
今だって。こんな事までして会いたいのは、
「ヴェルが好きだから!」
首から提げた十字架を引きちぎると物言わぬ水面に投げ付ける。
銀色のそれが暗闇に沈んで行くのを眺めている聖の耳元で、ふいに声がした。
――本当にいいの?
――後悔しない?
艶やかな女性の声。聞き覚えの無いものだったが、聖は大きく頷いた。
「後悔なんてしないわ!」
あぁ何て馬鹿な私。頭の、少しだけ残っていた冷静な部分が警鐘を鳴らすが、それが無意味な事も分かっていた。
「連れて行って!彼の元へ」
言い終わらない内に両腕を引かれ、水の中に沈んで行く。
まとわり付く水の感触に目を閉じながら強く思う。
例え後悔したとしても、構わない。あなたにもう一度会えるなら。
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