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 「はぁはぁはぁ・・・っ」

 磨き上げられた豪勢な廊下を一人の青年が腰まで伸びたプラチナブロンドを靡かせて全力で走っていた。

 今だ流れる頬の血が滴り、彼の腕の中にいる少女の体に降りかかる事にも気付かずに何かに追われるように懸命に走る。
 ノーブルの力が戻っていれば、聖を抱えていてもこのくらいで音を上げる事などありえなかったのだが、今はただの人間である。

 今ほどフィードである事を悔やんだ事はなかった。その刹那、

 「っ・・・う!」

 ふくらはぎに激痛が走り、バランスを崩した。咄嗟に聖を守ろうと無理な体勢をしたせいで、自らの受身が取れずにあちこち打ち付けてしまう。

 「・・・聖・・」

 ぼんやりとする意識の中、気がかりなのは脆弱な少女の事だった。腕の中にいる彼女の無事を確認しようと痛みに眉根を寄せながら首を動かして、ホッと息を吐いた。
 彼の予想に反して聖は無傷で、安らかな呼吸を繰り返していたのだ。

 「良かった・・・」
 「そんなにそのフィードが大切なのか」

 いつのまにか追いついたクラウンが、息も乱さずゆっくりと倒れ込む二人に近付く。

 「彼女がいなければ呪いが解けないから」
 「そうではない!」

 語気を荒げるヴェルに、クラウンの足が止まる。いぶかしむ様に、見下ろしたヴェルの美貌には怒りと戸惑いが混在していた。

 「聖は・・・聖はもうただの餌ではない」
 「何を言っている?」
 「余とて分からぬ!分からぬのじゃが・・・」

 言葉を切り、もう一度眠る少女の顔を見る。それだけで痛みを忘れ、温かな気持ちがこみ上げてくる。こんな感情は初めてで、戸惑うが、嫌な気分ではない。むしろそれをずっと待っていたような――

 「彼女を、殺したくはない」

 以前のヴェルでは考えもしなかっただろう。だが、今の彼は間違いなく彼女に生きていて欲しかった。聖の血を吸えば長年自分を苦しめていた呪いが解けると分かっていても、それでも、その首筋に牙を突き立てたくは無い。

 「・・・今まで数え切れないほどのフィードを殺しておいて、たかが女一人殺したくない・・・?」
 「クラウン?」
 「笑わせてくれる・・・本当にあなたには失望する」

 ゾッとするほど冷たい声で吐き捨てると、ヴェルのふくらはぎに深々と刺さっていた短剣を引き抜いた。
 意識が飛ぶほどの痛みと、頬とは比べ物にならない出血量に喉が焼き付くほどの悲鳴を上げるヴェルに、クラウンは冷ややかな眼差しを送る。

 「足りない・・・ヴェル。あなたはもっと苦しむべきだ」

 全然足りない、と呟いて血塗れたふくらはぎを踏みつける。

 「ぐあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
 「もっとだ・・・もっと」
 「ぐぅっ・・・な、なにゆえそなた・・・」
 「理由が知りたいか?」

 一番近くでいつでもヴェルを支えていた。彼が信頼出来る唯一の相手だとヴェルは確信していたのだ。それなのに。

 「ど、うして・・・」
 「・・・そんなに知りたいなら教えてやる・・・・・・私は、あなたが忌み嫌うフィードだ」
 「・・・・・・・え?」
 「正確に言うと、フィードの母とノーブルの父を持つ、ハーフ」
 「そんな事・・・」
 「確かに二つの種族が交わる事は禁忌とされている。だが、禁忌を犯す者もいると言う事だ」

 ノーブルとフィードのハーフは、ノーブルの遺伝子がより色濃く受け継がれるようで、フィードとは違い、不老不死である。それゆえにフィードの中で生活する事は不可能に近かった。
 母は禁忌を犯した事で、村中の人間から目の敵にされて、村を追われた。だが、どこに行ってもクラウンの存在がある限り、平穏な生活が訪れる事はなかった。

 それでも、親子二人、幸せだった。顔も知らない父のためにノーブルに対する憎しみはその頃から強かったが、フィードに対する嫌悪感も同時にクラウンは持っていた。

 どっちつかずの自分に苦しみながらも、母は優しかった。その母の優しさだけが生きがいだった。


 「・・・だが、そんな生活にも終わりが来た・・・ヴェル、あなたの気まぐれで」
 「余の、きまぐれ?」
 「フィードを絶滅させる前からあなたはフィードの地に赴き、フィードを狩っていたと聞いている。あなたは覚えていないだろうが、その時に私の母は殺された」
 「――――!」
 「私のたった一つのものを、あなたは奪った。ただの遊びで。きまぐれで」

 反論など出来なかった。あの頃のヴェルは、フィードをただの遊び道具にしか思っていなかった。殺す事に全く抵抗はなかったし、それで当然なのだとさえ思っていた。
 しかし、今は違う。聖と触れ合い、フィードも自分達と変わらない存在なのだと分かった。泣き、笑い、それぞれに家族がいて、生活があり、きちんと生きている。

 だからこそ、自分が許せなかった。何の罪も無いフィードをためらいも無く殺していた事を、彼は初めて、後悔した。


 「・・・そうか。そなたが余を殺したくなるのも無理はないのぉ」

 いつの間にか頬とふくらはぎの傷が消えている事にも気付かず、ヴェルは聖を床の上に寝かせて、立ち上がった。

 「・・いつか狂って死ぬ身じゃ。ここでそなたに殺されるのも良いかもしれぬ」

 もはやヴェルには聖の血を吸って生きる意志は皆無だった。呪いに毎夜苦しんで発狂するくらいなら、ここでクラウンに殺される方がよほど良い事だと思えた。

 「その代わりと言ってはなんだが、聖だけは元の世界に返してくれぬか」
 「・・・なぜ、なぜそこまでこの少女に・・・」
 「聖は世の命よりも大切なだけじゃ」

 穏やかに笑む青年にクラウンは呆然としながらも、短剣を持ち直して言った。

 「分かった。彼女には何の恨みもない。無事に元の世界へ帰そう」
 「そうか・・・これでもはや思い残す事はない」

 ゆっくりと目を閉じた青年に、短剣を向けたクラウンは悲痛な面持ちで何かを呟くと、今度こそその刃を振り下ろした。


 ――止めて・・・!!


 ――ヴェル!!  











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