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 このままヴェルが我を失えば聖にも危険が及ぶのは必至だ。身の安全を考えるならば今すぐこの場から逃げ出した方が良い。

 ――分かってるのに・・・!

 頭では今すぐ逃げ出せ、と足に指令を出しているはずなのになぜかピクリとも動けなかった。
 目線だけを必死に上に動かしても月は見えなかった。

 それを確認してからもう1度ヴェルを見やり、少女は気付いた。

 ルビーの瞳は怪しげに光っていたが正気を失くしているようには見えない。牙も出ていないようで、月に狂わされているとは考えられなかった。

 だが、向かって来る少年の何倍も大きな男達を軽くひねっている姿はノーブルの力を失っているとも考えられない。

 「・・・どう言う事・・?」

 困惑する少女の足元に男達が呻いて転がる。
 反射的に声を上げて後ずさり、彼らの意識がない事を確認してから、

 「・・ヴェル・・」

 声は震えて、弱弱しかったが少年の耳には届いていたようだ。空ろだった目はハッとしたように見開き、真っ直ぐに聖を射抜く。

 「・・・聖・・・あ・・聖・・!」

 掠れてつっかえる声は今少女の存在に初めて気付いたかのような驚愕の色が含まれていた。
 白くか細い腕は彼女を求めるように伸ばされ、母を求める幼子のようにひたむきに足を進める。

 「ヴェル!」

 気が付いたら聖も腕を伸ばしていた。不思議な力で引き合うようにお互いを求め合う二人。あと一歩で手が届く、その時だった。

 視界から華奢な体が突然消えたと思った次の瞬間、鈍い音と共に倒れ臥した少年がいた。

 ――え・・・?

 空を切る手と倒れるヴェルの光景がようやく一つに繋がった時、目の前が真っ暗になる。

 「ヴェル!?」

 慌てて駆け寄る。目を走らせると、彼は確かに息をして心臓を拍動させていた。ひとまず安心してから抱き起こそうと体に触れた時、異常に気付く。

 熱い。しかも尋常じゃない熱さだ。
 ヴェルの顔を覗くと雪白の肌は薄紅に染まり、額には脂汗をかき、呼吸は荒い。先程まで元気だったのに、一体これは――?

 「・・・く・・そ・・!」

 ともかく彼を城に運ばなければ、と担ぎ上げようとした時背後から最も恐れていた声が不気味に響いた。

 振り返ると、そこには最悪の事態が広がっていた。気絶していたはずの男達が起き上がり、二人を狂気に満ちた眼差しで睨む。
 僅かな街灯の光だけに照らされた路地裏に、突然強い光が差し込んできてまるで昼間のような錯覚を覚えた。

 見上げると、いつから出ていたのだろう、不気味な月が存在を主張するように煌々としていた。半月より少し満ちたほどのそれに聖はドキリとする。

 だが、それを憂いている余裕などなかった。今は目の前の危険からどう脱するかが先決である。
 腕の中に力無く身を預ける少年は月が出るとますます苦しそうに眉間に皺を寄せた。狂わされる事はないようだが、月の光が彼を苦しめている。

 様々な疑問が過ぎったが、向かって来る男達を視界に捕らえると、懸命にヴェルを横抱きにして立ち上がった。

 子供とはいえ普段運動をしていない少女にはその重みが辛かった。何とか抱える事は出来たものの、このまま走れと言われれば首を縦に振る事は出来ないだろう。

 しかし、それを重々承知していながらも聖は駆け出した。
 子供でも簡単に捕まえられるであろう速度である。男達は安々と彼女を捕まえると意識のないヴェルを無理矢理腕の中から奪い取った。

 「駄目!やめて!!」
 「うるせぇ!」

 追いすがる聖を乱暴に払いのけた後、ヴェルを地面に放り投げる。
 相変わらず意識の無い様子を見て、聖は青褪め、男達は薄く笑む。

 「よくもやってくれたなぁ!」
 「やめてぇぇぇぇぇ!!」

 いくら泣き叫んでも完全に月に狂わされた男達は止める筈もない。小さな体から血が流れ、傷ついていく様子は目を背けたくなるものだった。

 「これ以上やったらヴェルが死んじゃう!!」

 人が死ぬところなど見た事がない。日本でもまだ身近にいる人が亡くなった事はないため、少女にとって死とは酷く遠いものだったのだ。
 だからもうすぐ死ぬ、と言われても気が触れるほどの恐怖は感じなかったと言えるかもしれない。

 しかし、彼女は本能的に理解した。このままではヴェルが死んでしまう事を。
 こんな形で人の死を見る事など、耐えられない。例えこの少年が将来、自分を殺す存在であったとしても目の前で殺されかけているのだ。見捨てる事など――

 「私には出来ない!」

 涙を拭い、地を蹴ったシスター服の少女の前に期せずして神は舞い降りた。

 スッポリと頭から被ったフードで顔は分からなかったが敵では無い事は確かなようだ。
 簡単に男達をねじ伏せると、ぐったりと動かないヴェルを一瞥し、聖を振り返る。

 「・・・こんな所でくたばってもらっては困る」
 「え?」
 「早く城へ戻る事だ・・死なせるな・・・ヴェルを殺すのはこの私なのだから」
 「なっ・・・!」

 なんですって、と続くはずだった言葉は突然の突風により飲み込まれた。次に目を開けた時はすでに彼の姿はなかった。

 「何なの?」

 聖達が城から来ていた事を知っていた。ヴェルの名を知っていた。そして彼を殺すと言ったあの男――

 「・・・まさか・・」

 最初に雰囲気が似ている、と思った。そして声を思い出して確信する。まさかあの男は・・・


 「クラウン・・・?」


 彼女の口から零れ落ちたもの。それはヴェルが最も信頼する男の名だった。











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