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ひんやりとした硬い感触を頬に感じて聖はゆっくりと瞼を持ち上げた。
――生きている。
自らの心臓の鼓動を聞き、大きく息を吸い込もうと口を開けたが、少量の水と咳が出て来るばかりだった。
水を見て、自分がどうなったのかがぼんやりとだが思い出された。
不思議と混乱はせず、軋む体を鞭打って起す聖の瞳は驚愕に見開かれていた。
そこは豪勢な部屋でもなく、天蓋付きベッドもなく、カッコいい王子様なんて夢のまた夢の場所――
「ろ・・牢屋・・・!?」
じめじめとした異質な空気と光を通さない薄暗い場所はテレビで見た牢屋によく似ていた。
寒さからか、恐怖からか、背筋が一瞬ブルッと冷え、聖は慌てて立ち上がり、思い切り叫んだ。
「誰かいないんですか!?どうして私が閉じ込められないといけないの!?」
ここまで感情が高ぶったのは久しぶりで、息が乱れる。何度叫んでも人の気配すらしない状況にイライラが募っていく。
「もう・・・何なのよ・・・」
崩れ落ちるようにその場に項垂れる。どこか自由な世界へ行きたいとは願っていても、こんな世界は望んでなんていなかった。
薄暗い牢の中で唯一つ、輝きを失わない胸に揺れる十字架に、聖はこの時初めて縋った。
「主よ・・・私があなたを否定したからこのような罰を・・・?」
今まで一度として神に問いかけた事などなかった彼女の声は酷くたどたどしいものだったが、それ故の必死さが伝わってくるものだった。
「神様・・誰か・・助けて・・・」
不安に押しつぶされそうになりながら頬に伝った涙が一滴十字架の上に零れ落ちた瞬間、大きく扉が開かれる音と共にランプで牢屋が照らされた。
「!!?」
「目が覚めたか・・」
艶やかなテノールを放つ人物は牢の前まで来て、聖の顔を照らした。それにより、聖も相手の顔をうっすらとだが確認出来た。
それはハリウッド映画に出てくるようなカッコいい青年。もちろん顔は日本人のそれではない。かと言って濃すぎるわけでもなく、ちょうどハーフのような美しさだった。腰まで届く漆黒の長髪は無造作に垂らされて、青年の整った顔に掛かる。
こんな人が日本にいたらまず間違いなく見惚れてしまうのだが、そんな事を呑気にしている状況ではなかった。この美形はきっと自分を誘拐した犯人なのだから。
「あ・・あなた誰なんですか!?どうして私をこんな目に!?」
「・・・それを説明する義務が俺にあると思えない・・・」
冷ややかな眼差しを向けられてヘコたれるほど少女はやわではなかった。青年を睨み返すと、牢を叩き、喚く。
「義務とか意味が分からないんですけど!こんな事して・・すぐに捕まりますからね!日本の警察を舐めないで下さいよ!?」
「ケイサツ・・・?訳の分からない事を・・」
「ポリスよポリス!!日本語分かってるんでしょ!?誘拐なんてしても絶対上手くいくわけないんだから!」
「本当に煩いな・・・俺達は誘拐などしていない・・」
俺達、と言う単語に聖は牢を叩いていた手をピタリと止めた。犯人はこの男だけではないと言う事だ。
冷や汗が額に滲む。相手は外国人だ。もしかしたら誘拐ではなく人売りなのかもしれない。外国で自分を売るつもりなのではないか。
前に見た映画のワンシーンが脳裏に過ぎる。枷を付けられた少女達が太った男共に買われていく――。その少女達は汚い男共の餌食に・・・。
「絶対に嫌よ!!私・・」
考えただけで酷い吐き気が襲う。
堪えてきた緊張の糸がぷつりと切れる音がした。熱いものが込み上げて来て、気が付いたら大粒の涙となって溢れていた。
少女の涙に青年は初めて戸惑ったように息を呑んだ。
「どうして私が・・・うっひっく・・」
「おい・・・」
ついに顔を伏せた華奢な少女に青年が困惑気味に手を伸ばそうとした刹那、二人の間に鋭い声が割って入った。
「・・クラウン・・何を手間取っているぞ。フィードなど放っておけばよい」
「ヴェル・・」
犯人の一人かと顔を上げた聖はしかし呆れて涙も止まってしまった。
「・・こ・・ども・・?」
10歳そこそこのこれまた何とも可愛らしい少年がそこにいた。
シルクのようなプラチナブロンドに縁取られた青白いほどの白い顔に、ルビー色の瞳、薔薇色の頬と桜色の唇。どれを取っても文句のつけられないほどの美少年だ。
まさかこんな子が犯人のわけがないと勝手に決めつけた聖は、しゃくり上げながら口を開いた。
「あ、なたも捕まったの・・・?」
こんな可愛い子、攫ってくれと言っているようなものだ。
だが、ヴェルと呼ばれた少年は忌々しげに聖を見ると明らかに侮蔑を含んだ冷めた眼差しを向けた。
「フン・・フィード風情が気安く余に話しかけるでない。クラウン、行くぞ。このような場所長居しとうない」
「ああ・・」
聖は混乱していた。被害者だと思っていた少年はどうやら加害者のようで、しかも青年を従えている。
「ちょっ・・待ってよ!私を一体どうするつもりなの!?」
犯人と一緒にいる事も嫌だったが、それよりもこんな不気味な牢に一人でいる事の方がたまらなく苦痛だった。
「待ってってば!説明くらいしてくれてもいいでしょう!?」
無視して立ち去ろうとしていた美少年は、喚き出した聖に心底ウンザリした風にその美貌を歪めて振り返った。ルビーの瞳には殺意がありありと見て取れた。
「のうクラウン・・殺してもよいか?余はもう限界じゃ」
「別に止めはしないが、あの娘を殺せばヴェルが不味いのではないか」
「むぅ・・ほんに難儀な事じゃ!何故あ奴はこのような呪いを・・」
「あ・・あの・・?」
殺す、と言う単語に慄きながらもシスター服の少女は意を決して二人の間に割って入った。
「あなた達って本当に一体何なの・・・?」
どうも誘拐犯、人攫いには見えない。それに所々飛び出す単語の意味も全く理解出来ない。この人たちは一体なんなのだろう。
少女の問いに少年はようやくその桜色の唇を開いた。
「余等はノーブルじゃ。貴様等フィードなどとは違う高貴で貴重な存在じゃ」
少年のルビー色の瞳が刹那、血色に見え聖は肩を震わせた。
「ノーブル・・?フィード・・?」
英語か何かなのか、聞いた事もないそれにますます少女の困惑は深くなる。
「何じゃ?そのような事も知らぬのか?」
「この娘は違う世界から来たからな」
「フン・・それでもフィードはフィードじゃ」
――え・・・?
今、彼は何と言った。違う世界・・・と言っただろうか。
まさか、と思いつつも彼らの見たこともない奇妙な服や容貌を見ているとどうしても笑って済ませられるものではなかった。
外が見たかったが、ここに窓などなく視界には相変わらず薄暗い牢が広がるばかり。
急に黙り込んでしまった少女に気付いた青年は、そっと声をかけた。
「・・・どうかしたのか。具合でも悪いのか」
「クラウン!フィードなど放っておけばよい」
「・・フィードは我らと違い、とても弱い。ちょっとした事ですぐに死ぬ・・・今死なれたら困るだろう」
クラウンの言葉に少年は眉を寄せたが、深い溜息を吐いて諦めたように目を閉じた。
「まぁよい・・次の満月までの辛抱じゃ。そ奴の世話はそなたに任せる」
そして余は少し眠る、と言って少年はその場を後にした。
バタンと言うけたたましい音の後に降りる沈黙。聖は青年を見たが、彼からは何も言う気配は見られない。ただ無表情にそこに立っているだけであった。
「・・・ここは一体どこなんですか?」
無視されるかもしれない、と思ったが、クラウンと呼ばれた青年は意外にもあっさりと答えてくれた。
「ここはセイクリード・・あなたが住んでいた世界とは違う場所」
聖にとって、無視されていた方が幸せだったかもしれない。恐れていた事が現実になってしまった。
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