セイント光女学園は日本でも有数の敷地を有しており、イギリスのそれを意識した庭や噴水と言ったものの他にとても煌びやかな教会を持っている全寮制のカトリック系高等学校である。

 女学園と言うだけに生徒は全員女で、シスターをモチーフとした濃紺のロングスカートに十字架のネックレスを付けるのが決まりだ。

 スカートを短くする事が一般的な現代では少々地味とも思われる制服だが、清楚なイメージで人気は高い。カトリックなだけに生徒のほとんどが熱心なキリスト教徒であるが、もちろんそうではない生徒もいる。




 毎日行われている教会での祈りと賛美歌を遠くに聞きながら、学園の制服に身を包んだ少女は重い溜息を吐いた。

 「・・お祈りなんて眠たくなるだけじゃない」

 ただでさえ5時半起床は辛いのに、授業前に30分も教会にいなければならない事にいつも息が詰まっていた。

 少女の胸元では十字架が日を浴びて光っていたが、本来なら彼女はこんなものを付ける気などサラサラないのだ。ただ付けていないと注意を受けるので仕方なくしているに過ぎない。


 少女の名前は園村聖、聖と書いてひじりと読ませる己の名前を彼女は昔から大嫌いだった。両親が熱心なキリスト教徒なので半ば無理矢理にこの学園に入れられたのだが彼女に信仰心は全くと言っていいほどない。

 他の皆が遊園地や動物園に連れて行ってもらえる日曜日に彼女はいつも教会へ連れて行かされた。そこでのミサは彼女にとって退屈以外の何物でもなかった。もっと色々な所に行きたかった聖の不満は両親を通してキリスト教に向けられ、少女はいつしかキリスト教に怒りを感じるようになっていた。


 いつだっただろう、その怒りを両親にぶつけた事があった。「神様なんているわけがない」と叫んだ瞬間、父親に打たれた事は今だ鮮明に思い返される。

 彼女にとってこの学園は苦痛でしかなかった。

 朝のお祈りをサボるのは聖にとっての精一杯の反抗だ。いつものように教室に行けば先生から怒られ、同級生からは軽蔑の目で見られるのだろう。


 うんざりした気持ちを吹き飛ばそうとベンチに寝転んで澄んだ空を見上げる。

 誰かに見られれば「はしたない」と叱責される行為も今は自由に出来る。この時間だけが彼女の全てだった。

 まだ1年の聖はあと2年以上も辛い学園生活を送らなければならないのだ。それを考えるといつも憂鬱になって気分も落ち込むのだが、こうして寝転んでいる時だけは無心でいられた。


 「・・どこかに飛んで行きたいな」

 長期休みで実家に帰っても学園にいるような気詰まりを感じる。どこか自由な世界へ飛んで行きたいといつも願っていた。空を自由に飛びまわる鳥達が時々妬ましいほどに思ってしまう。



 しばらく瞳を閉じて鳥の囀りに聞き入っていると、朝のチャイムが鼓膜に荒々しく突き刺さった。

 聖は名残惜しそうに瞼を持ち上げると起き上がった。

 「・・行かなきゃ・・」

 このまま授業もサボってしまいたいと思ってもそこまでの勇気はなく、渋々立ち上がる少女の耳にチャイム以外の音が掠めた。

 「・・・何?」

 空耳かと思ったがチャイムが鳴り終わってもそれはまだ聞こえてきて聖は眉を寄せた。


 うぅ・・・ぐっ・・・は・・っ・・


 何か激しく苦しんでいるのか、聞いているこちらが耳を塞ぎたくなるほど痛々しい呻き声は確かに聖には聞こえていた。

 だが、それは若い男――まだほんの少年の声色であり女子高であるこの学園で聞こえるわけがないのだ。

 だから聖はそれを空耳だと思い込む事に決めた。今すぐ教室に向かわなければ遅刻してしまうと言う思いもあっただろう。

 「・・行こっ・・!」

 気味の悪さを消すために駆け足でその場を後にした彼女には近くにあった噴水の水が小さく揺らいだ事に気付くはずもなかった。











 その後、聖は授業を聞いていても食事を摂っていてもいまいち集中出来なかった。おかげで授業中当てられて先生にこっぴどく叱られてしまった。

 今朝聞いた奇妙な声がやはり心に掛かっている。空耳だとその場では思っても改めて考えてみるとあれほど鮮明な空耳などあるのだろうか、と悩んでしまう。

 もしかしたら迷い込んだ男の子が怪我をして倒れているのでは、とか色々考えても結局結論など出るはずもない。


 喉につっかえた骨が取れないようなむず痒さを午後からずっと感じ始め、ついに授業終わりのチャイムと同時に立ち上がった。


 ――確かめよう。


 このむず痒さを取る為にはそれしかないのだから。何か危なくなったら声を上げれば誰か来てくれるだろう。朝と違って人は学園中に溢れているのだから。


 本当ならすぐにでも走り出したいのだが、先生が目を光らせている今廊下を走るなんて命知らずのする事だ。出来るだけ足早に歩きながら校舎を出た。



 今朝寝転んでいたベンチには幸い先客はおらず、聖は楽にその場に行く事が出来た。


 辺りを注意深く見渡しながら恐る恐るベンチに座ってみても少年の声は聞こえてこない。

 5分ほど耳をすませてみても聞こえてくるのは少女達の笑い声と葉のそよぐ音だけで、聖は拍子抜けした。


 「・・だよね。空耳だよね」

 ようやく緊張が解けてホッと胸を撫で下ろす。

 一気に軽くなった体で立ち上がり、そのまま宿舎へ行こうとした刹那、聖はギクリと体を強張らせた。


 背筋がヒヤリとし体温が2,3度下がったような錯覚を覚える。今朝聞いた呻き声が聞こえてきたのだ。しかも今朝よりもさらに苦しそうなそれ。

 一体どこから、とようやく動くようになった体で音源を探してもいるはずの少年はどこにもいない。


 まさか本当に幽霊、と青ざめ始めた時ある異常に気付く。

 広大な庭の中央に設置されている中世ヨーロッパ風の噴水。いつも絶やさず水を出し続けているそれが今はなぜか水も出さずに静かに佇んでいた。


 予感はしていた。嫌な予感が。頭ではそれに近付いてはいけないと警鐘を鳴らすが、聖の体はそれに引き寄せられるように覚束ない足取りで噴水の前まで来てしまっていた。

 魅入られたように水を覗き込むと歪んだ自分の顔が当然映るはずであった。

 だが、彼女が覗き込んだ瞬間大きな波紋が広がりその波紋の中心からコポリと何か白いものが出て来た事を確認すると、聖は恐怖に目を剥いた。


 それは手だった。凶器にもなる鋭い爪を持つ小さな白い手が水の中からゆっくりと出て来たのだ。

 いくら確認しても水の中に人はいない。


 すぐにその奇妙さに気付いた聖は震える膝で逃げようとしたが、何かに腕を引っ張られてそれはかなわなかった。

 「――――――!!?」

 恐怖に滲む視界は自分の腕をしっかりと握る手を捉えていた。振り払おうとしてもどうしても出来ない。それほど強い力がその細い指にあるとはとても思えないのに。


 それでも諦めたら終わりだと分かっている彼女は必死に抵抗していたのだが、爪が肌に食い込む痛みに一瞬力を抜いてしまった。

 少女を掴んでいた手は見計らったかのように今まで以上の力で彼女を引っ張ると、纏った制服のスカートがふわりと捲れてそのまま水の中へと吸い込まれた。



 突然の出来事に水を飲んでしまい、思い切り空気を吐き出してしまった。

 大きな泡と共に聖の意識は次第に混濁していく。


 意識を手放す直前、霞む意識の中、彼女は確かにそれを聞いていた。




 ”見つけた―――余の餌じゃ”











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