部屋に入ったフローディアはそこにまだリリィが生きて立っていた事にホッと胸を撫で下ろした。

 目の前で部下の兵を簡単に切って捨てるような王であるから逆らえばどうなるか分からない。もう遅いのではと言う不安があったがリリィは殺されてはいなかった。

 「良かった・・・」
 「私を心配して来て下さったのですか、姫様・・」
 「・・・私のために人が死ぬところはもう見たくないだけです」

 姫の言葉にリオウは一瞬肩を震わせた。その声はどこか非難めいていて、自分に対する恨みの様に思えたのだ。

 「大丈夫ですわ。王はもう簡単に人を殺める事など致しません」

 王の僅かな変化をリリィは見逃さなかった。今だリオウを自国を滅ぼした憎むべき相手としか見ていない姫に少しでも分かって欲しかった。

 リオウはただ残酷な王と言うだけではない。ちゃんと感情もあり姫の事を愛する一人の男だと言う事を。そして彼が姫に会い少しずつ変わり始めている事を。

 フローディアはリリィの言葉を完全には信じたわけではないようだが、リオウが剣も持っておらず静かに椅子に座っているのを見て少なからず何かを感じたようだった。

 ――少しずつでいいのです。

 年若い王と姫には多くの時間がある。これから少しずつ分かり合っていき、いつか愛し合える日をリリィは信じている。









 結局、その夜フローディアは自室で休む事が出来た。まさか王が侍女の言葉に耳を貸し命を取り下げる事など考えてもいなかった。

 驚きと同時に何とも言えないような複雑な気持ちになる。

 ――優しさなんて知りたくなかった。

 彼と接する事により、冷酷な面ももちろん見えた。だがそれよりも多く違う面も見えてきたのだ。


 愛しているのだと懸命に言う姿はまるでだだをこねる少年のようだった。

 ふいに見せる笑顔はひどく優しげで、でもどこか悲しみも含んでいた。

 言い方は乱暴で素っ気無いが、触れる手は温かくいつも自分を丁寧に扱っていた。


 そこまで考えて突然フローディアはベッドから起き上がった。

 リオウの行動の端々から脳裏に浮かぶ少年がいた。だが、うっすらとだけでその記憶はひどく曖昧なものであった。

 「私は彼と会った事がある・・・?」

 それであればリオウが初対面であるはずの姫をあそこまで求める理由に説明がつく。
 だが、分からない。その少年が誰であるのかどうしても思い出せないのだ。それに、思い出したくないと言う気持ちもあった。

 リオウは憎むべき敵国の王。恨むべき仇。そう思う事で自分を保ってきたのに、彼を知るたびにそれが薄れていくように思える。この上、記憶が蘇りそれが暖かいものだったら――

 考えるだけでも恐ろしかった。こんな事を思うのは戦で死んだ自国の民はもちろん、両親や弟に顔向けが出来ない。

 どうして突然こんな風に思ってしまうのだろう。愛してくれた人がいなくなり、孤独となったところで王に愛を囁かれ優しくされ、ついつい甘えが出てしまったのだろうか。

 二人で遠出をした時に思いがけずより掛かってしまった王の胸は厚く、その腕は姫の体をすっぽりと包み込み、この世の全ての苦しみから守ってくれているような錯覚を覚えた。

 「嫌よ・・・嫌・・・レギン・・!!」

 怖い怖い怖い。これ以上、リオウと共にいればいつか憎しみも忘れ国をも捨て、あれほど一途に愛したレギンの事もいつか思い出になってしまうかもしれない。

 女として、それは幸せな事であったが一国の王女としてそれは許されない事だった。



 フローディアはひとしきり泣いた後、はっとしてベッドから抜け出した。

 泣きはらした目を見られれば侍女や王に何を言われるか分からない。テーブルの上に置いてあった水差しを手に取り布に染みこませそれを目に当てた。

 ひんやりとして気持ちがいいが、泣いて体も火照ってしまった。少し風にあたろうかと窓に近寄った時、心臓がドクンと大きく鳴った。

 誰か、人の気配がする。

 カーテンに覆われた窓の向こう側はバルコニーになっている。そこから何か人の気配のようなものを姫は敏感に感じ取った。

 真夜中に王の寵姫の部屋を外から訪れる人物など普通であれば考えられない。

 嫌な汗が背中をつたい、ひやりとした。

 だが、フローディアは音を立てないように窓に近寄りそっとカーテンの端を引っ張った。

 「っ・・ひっ・・・!!」

 そこにいたのは数人の武装した男だった。兵士の格好をしていたが、明らかに異質だ。
 その一人が剣を抜いて窓に近寄ろうとしていたので、フローディアはたまらず小さく叫んでしまった。

 「!気付かれたか・・!?」

 男の鋭い声を窓越しに聞いた瞬間、フローディアは身を翻していた。もう静かに歩く必要などない。バタバタの走る音に男達は気付き、慌てて窓を破り部屋に侵入した。

 硝子の割れる音に思わず振り向いた姫の目に映ったのは、自分を追いかけようとする男達の姿だった。仄暗い瞳には明らかに殺意が見え隠れしている。

 ――殺される・・・!!

 確かな現実でもって死は彼女の目の前に現われた。
 不思議な事に、あれほど死んで皆のもとに行きたいと願っていても、人間の本能からそれを避けようとするらしい。

 走りにくいロングスカートが今はもどかしい。ドアのぶに手を掛けてそこにいては死しか訪れない部屋から飛び出した。

 普段は自室に篭っているフローディアなので一歩部屋から出れば未知の世界と言っても過言ではない。ただでさえ入り組んでいて部屋数も多いのだ。

 逃げ場のないように思えたが、一つだけ彼女の知る部屋があった。今日、訪れたばかりのリオウの部屋である。

 思わずリオウの顔が目に浮かび、再びフローディアは死とはまた別の恐怖を感じた。こんな時にどうして王を思い出すのだろう。

 この先を右に曲がればリオウの部屋はもうすぐだ。だが、姫は敢えてそこを左へと曲がった。

 これでいいのだと言う思いとなぜ右へ行かなかったと言う二つの矛盾した思いが交差し、体が一瞬固まった。

 そして操る糸の切れたマリオネットのようにフローディアの体は廊下に倒れ込んだ。

 呆然とする彼女を追いついた男達が取り囲む。

 「手間をかけさせてくれたなお姫様」
 「あんたに恨みはないが、その体に王の子を宿されては困る方がいるのでね」
 「大人しくしていれば一瞬で終わらせてやるよ」

 口々に剣を翳しながら言う男達の言葉をフローディアはぼんやりと聞いていた。
 男達はそれを不審そうに見たが、すぐに残忍な笑みを浮かべて剣を振り上げた。

 「さようなら」

 素っ気無く言って一人の男が剣を振り下ろそうとした。だが、その剣が振り下ろされる事はなかった。

 変わりに聞こえてきたのは男の情けない叫び声だった。

 「ぐあぁぁぁ!!」
 「!?だ、誰だ!!?」

 ぼんやりと姫も目を向けたが、そこにいた人物が視界に入ると、表情が歪んだ。

 恐れ、安堵、焦り、様々な感情が交錯するフローディアを見る王の目には安堵しか浮かんでいなかった。

 「姫・・無事だったか・・」
 「貴様・・王・・!!」

 闇に紛れる漆黒の髪を今は束ねず靡かせる姿は月の神のように姫の目には神秘的に映ったが男達には恐怖でしかなかった。

 「貴様ら・・姫を狙うなど・・死は覚悟出来ているか」

 低く言って鋭い視線を送れば恐怖に凍りつかない者はいない。男達も思わずと言うように一歩後ずさったが、すぐに負けじと剣を持ち直す。

 「今回は姫の暗殺だったが、お前を殺ればあの方も納得して下さるはずだ・・!!」
 「・・・貴様達も奴の飼い犬か・・かかって来い」

 だが、勝敗はあっという間についた。姫の目にも王の剣の腕がかなりのものである事が分かった。重いはずである剣を片手が軽々と振るう姿は剣舞でもしているように軽やかだ。

 あっという間に男達を倒し、残ったのは後ろに控えていた主犯格の男だけだ。

 「貴様の仲間は死んだぞ。さあどうする・・?」
 「くっ・・!」
 「姫、もう少しの辛抱だ」

 一瞬、リオウに、もう大丈夫だと言う油断が出た瞬間を男は見逃さなかった。素早く姫を羽交い絞めにし、剣を首筋に突きつける。

 「っ・・ディー!!」

 リオウが息を呑んだのを見て、男はにやりと笑った。

 「よほどこの姫にご執心なんだなぁ。弱みとなるものを作るなど・・愚かな男だ」
 「黙れ・・・姫を放せ」
 「それは無理だ。ここまできたらこの姫も道ずれだ。例え俺が死んでも姫さえ殺せば任は果たせる」

 言うなり、男はすばやく剣を振り上げ、彼女の体に付きたてようとした。

 だが、それより先にリオウの体が動いていた。すばやく剣と姫の間に入り、男の首をはねる。
 無言で後ろに倒れていく男の血が辺りに飛び散り、姫と王を汚す。

 「あ・・・あ・・」

 今更震えが体を襲い、歯も噛みあわずに上手く話す事が出来ないフローディアの頬を血塗れたリオウの手が触れた。

 「良かった・・・怪我はないか・・・」

 心からホッとして無事を喜ぶ王の姿を見て姫の心に温かいものが込み上げて来る。

 「私・・」

 何か言う前にリオウが彼女の体を抱き締めていた。恐怖で冷え切った体が熱を取り戻していく。
 しかし、リオウが段々と体重を掛けてきて、フローディアはリオウに押し倒される形で廊下に横になった。

 「嫌っ!ちょっと・・離して・・!」

 突然のリオウの行動に慌てた姫は何とか下から抜け出し、ホッと息を吐いた時、ある違和感に気付いた。

 ぬるりと手に纏わりつく温かいもの。これは何――?

 恐る恐る自らの手を見詰める彼女の瞳に、鮮やかな赤が飛び込んできて、鉄の匂いが密やかに漂ってくる。

 ハッとして今だ倒れたままでいるリオウを見て、彼女は口を覆った。その背には深々と剣が突き刺さり涙のように血が流れていた。      











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