5
外は夜明け前の薄暗い中で、一人の男が目を開けた。
長い睫毛に縁取られた薄い紫水晶の目に映ったのは見慣れた部屋ではなかった。
ぼんやりとする頭で少し体をずらすと、飛び込んで来たのは自分が求めてやまなかった女のしどけない姿だった。
――ああ・・・そうか・・。
それを見て、頭が完全に覚醒する。正直驚いた。自分がここまで熟睡するなんて。
横にいる女の顔は美しい中にも陰りが見られ、ひどく疲れている事が窺える。その頬には涙の跡があり、目は赤く腫れていた。
そんな姿を見ると心が騒ぐが、それも押さえがたい欲求の前ではひどく霞んでしまった。自分はこの女が欲しくてたまらなかったのだ。
横に眠る愛しい人を起さないようにそっと顔にかかる髪をどかして、現われた綺麗なカーブを描いた額にそっと唇を寄せる。
軽く触れるだけですぐに離れる。これ以上すると押さえが利かなくなりそうだったからだ。
「・・・ディー・・」
男は呟いて名残惜しそうに何度も何度も髪に触れてから、そっとベッドを抜け出して落ちていた服を身に着け始めた。
長い廊下を仏頂面で歩いている男を通りがかった兵や侍女が見ては驚いて礼をしていく。誰もがなぜこんな時間に、と思ったがそれを口に出して聞ける者はこの城には少ない。
男、リオウはおどおどと礼をする人々をちらりとも見ずにひたすら足早に歩く。
だが、その歩みはもう少しで部屋に着くと言うところでピタリと止まった。
今の彼に声を掛ける事の出来る人物が前から歩いて来たのだ。
「・・王、このような時間にお一人で・・危険でございます」
「私を誰だと思っている。私がどこで何をしようと勝手だ。ここは私の国なのだから」
その言い様に王の部下、シャールは顔を顰める。これほど王が不機嫌なのも珍しい。
いぶかしんでよく見ると、男の服は着崩れしており、髪も乱れ、気だるげな様子が窺える。
聡明で忠実な部下はすぐに察した。普通なら気付かない振りをするところだが、シャールはあえてそれを口にした。
「いささか軽率な行動ではないでしょうか」
「何だと?」
「いくら王が宣言したと言っても、彼女はまだ正式な妃ではありません。それを・・・大臣達が何を言うか・・」
「老いぼれ達の言う事など無視すればいい。奴らの戯言をいちいちきいてはいられない」
「・・それをすればどうなるかはあなたが一番分かっておられるはずです」
その瞬間、空気が冷えた。リオウは忌々しげに唇を噛み、シャールは目を伏せる。
そこで会話は切られ、シンとした沈黙が訪れる。
だが、永遠に続くかと思われた沈黙は、リオウの苦々しい声によって破られた。
「分かっている・・・だが、私は抗ってみたいのだ。歴史と、血の宿命に・・」
シャールがそれにはっとして言葉を返そうとしたが、リオウはすでに彼の脇を抜け廊下を曲がっていた。
数刻が過ぎ、日がフローディアの眠る部屋にも差し込み始めた頃、閉じられた瞼の上からでも光を感じ彼女はうっすらと目を開けた。
ぼんやりと数度瞬きをして、いつものように体を起そうとした途端、下腹部に鋭い痛みが走った。
「いっ・・・っ・・」
小さい悲鳴を漏らしてベッドに蹲る。あまりの痛みに額からは汗が滲む。
だが、その痛みが昨夜の行為を思い出させ、フローディアは青ざめた。
――私はあの男に・・・。
認めたくないが、体に咲いた小さな赤い痣が目に入り、彼女は認めざるをえなかった。
――ああ・・・。
頬にまた新たな涙の跡が出来る。
もう自分は昨日までの自分ではない。汚れてしまったのだ、と言う強い不快感がせり上がってきた。
「・・うっ・・」
酷い吐き気に襲われて、口と腹とを押さえて懸命にやり過ごそうとしていると、控えめにドアがノックされた。
「姫様・・起きていらっしゃいますか?」
「!」
暗に入ってもいいかと聞く侍女に姫の顔はますます青ざめていった。こんな惨めな姿を敵国の者になど見せたくはない。
拒否の声を上げようとするが、そのまま吐いてしまいそうで出来なかった。
侍女は返事がない事に戸惑いながらも中から微かに苦しげな声が聞こえてくるので、意を決してドアを開けた。
するとそこにいたのは青ざめて口を押さえた姫の痛々しげな姿だった。
「ひ、姫様・・・!!?」
慌てて侍女が駆け寄って、薄絹に包まれた背中を懸命に撫でる。
その背に、体に無数の赤い花が咲いている事を目にし、侍女も涙が出そうになった。
この姫がこんなに苦しんでいるのは少なからず自分のせいでもあるのだ。王が姫の部屋に来る事を知りながら、それに従い、姫にそれを伝える事もなく、そして彼女の泣き声を、救いを求める声を無視し続けた。
ファーフナー王国の侍女として当然の行為であるのだが、この侍女は昨夜からずっと罪悪感に苛まれていたのだ。
「吐いた方が楽になりますわ」
どれほど侍女が促してもフローディアは首を振るだけで決してそうしようとはしない。
侍女は困ったように眉を寄せたが、少しでも楽にしてあげようと手だけは姫の背中を擦り続けた。
それを何分か続ける内にフローディアは少しずつ気分が良くなり吐き気も収まってきた。
「もう大丈夫です・・」
何とか声を出せた事に安堵して体を起すと侍女が慌ててそれを支えた。
そしてされるがままに体を清められてドレスを着せられる。
その事にフローディアはかなりの抵抗を覚えたが、自分で出来るほどの体力がないので身を任すほかなかった。
お互い無言でいたが、しばらくすると侍女がポツリと蚊の鳴く様な声で呟いた。
「どうか王を恨まないで下さいませ」
小さな声でもフローディアの耳にはしっかりと届いており、その言葉を聞いた瞬間彼女の肩がビクリと震えた。
彼女の顔には困惑と言いようのない悲しみと怒りがあった。
どうして王を恨まないでいられよう。自国を滅ぼされ、愛する者を奪われ、自分も彼のせいで汚されてしまった。
侍女は姫の敏感な気持ちを察知し、顔に陰りを落としながらも懸命に言い募った。
「姫様がお恨みになる気持ちも十分に理解出来ます・・ですが、王は・・本当はとても悲しい方なのです・・」
「え?」
少なくともフローディアにとってはあの王が悲しいなどとは考えもつかなかった。彼女にとってあの男は傲慢で残酷で冷酷な敵国の王だ。恨みこそすれ同情する人物には値しない。
だが、侍女はひどく苦しげな顔をしてなおも言った。
「あの方はずっと孤独の王でいらっしゃいました・・でも、そうではありませんでした。王には姫様がいらっしゃったのですね・・」
「私・・・?」
「そうですわ。あの方は今まで女性と言う女性を寄せ付けませんでした。ですが姫様だけは違いました。私はあのように生き生きとした王を初めて見ました」
フローディアの混乱は一層深くなる。一体この侍女は何が言いたいのか。
「姫様だけが王を孤独から救えるのです・・どうかこれだけは覚えていてください・・」
侍女は最後にそれだけ言って、失礼しますと出て行こうとした。
「待って!」
咄嗟にフローディアは彼女を呼び止めていた。どうしても気になった事があるのだ。
なぜ彼女は王をそこまでして庇うのか。自国の王だからと言う理由だけではないような気がしたのだ。
そう問い掛けると、侍女は一瞬驚いた顔をしたがすぐに儚げに笑った。
「私は王に恩義があるのです・・・王はもうお忘れでしょうが・・」
「恩義・・・」
「はい。ですから王には誰よりも幸せになって頂きたいのです・・姫様にそれを求めるのは酷な事だと分かっておりますが、それでも言わずにはおれなかったのです」
侍女もいなくなり、再び部屋に一人になったフローディアは重い足取りでベッドまで行き、そこに腰を下ろす。
そしてそのまま髪とドレスが乱れるのも厭わずに仰向けに寝転がった。
豪勢に飾られた天井を見つめながら頭の中では侍女の言葉を反芻していた。
王に幸せになって欲しい・・・?
彼は孤独で悲しい方・・・?
私だけが王を救う事が出来る・・・?
「・・・救うですって・・・?」
そんな事・・・
「私は絶対に許さないわ」
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