ついにこの日が来てしまった。

 大きな門が開かれるとフローディアを乗せる馬車は大きな賑わいを見せる街へと入って行った。
 今日、ロクスバーグから3日ほどの旅を経て、ついにファーフナー王国の城下町へと入ったのだ。

 民にとっては敬うべき美しいファーフナー城も、フローディアにとっては死刑執行場である。

 国と家族を奪い、フローディアを絶望の底に突き落とした残酷なファーフナー王とはどんな人物なのか。

 フローディアにとって、憎むべき王と謁見する事も恐ろしかったが、それよりも王と対面する自分の方がもっと恐ろしかった。

 ――私はきっと怒りで我を失ってしまう・・・。

 王に無礼を働いたとその場で殺されるかもしれない。本能がそれを拒絶するが、フローディアの心はそれもいいかもしれないと思っていた。

 優しかった父も母。まだ幼い弟。そして――

 「レギン・・・」

 吐息混じりに呟いた名は敵兵の耳に入りはしない。

 フローディアの大切にしていたものは全て無くなってしまった。

 ――私が生きている意味などもうありはしない・・・。

 枯れ果ててしまったと思われたが、涙は止め処なく彼女の目から流れ出る。
 泣き顔を敵兵に見られたくなくて、慌てて顔を背けた彼女の目に、ファーフナーの町並みとそこに暮らす人々が飛び込んで来た。

 母親に甘える子供。酒を楽しむ男達。恋人と寄り添い、頬を赤らめる少女。
 その誰もが幸せそうで、平和で穏やかで。

 自国の民を惨殺した敵国の民のその様子にフローディアは唇を噛み締めた。だが、腹立たしさと同時に込み上げて来る懐かしさは何だろうか。

 彼らの幸せそうな顔を見たくなくて、楽しげな笑い声を聞きたくなくて、思い切り窓を閉めた少女を兵は不審げに見たが、少女は俯いたまま何も言わなかった。









 ファーフナー城へ入ったフローディアがまず連れて来られた場所は花の匂い漂う清潔な大浴場であった。

 王と会う前に体を綺麗にしろと言う事だろう。確かに3日間ろくに風呂に入れなかったフローディアは一国の王女らしからぬ有様だった。
 その上ドレスには所々黒ずんだ染みや泥がこびり付いている。

 それをチラリと一瞥して眉を寄せた侍女は早く風呂に入るように急かす。彼女達の振る舞いは上品で丁寧だったが、その目はひどく冷たいもので自分が決して歓迎されているわけではない事を改めて知った。

 無理に服を脱がそうとする侍女達にフローディアは思わず声を上げていた。自国でも侍女は何人もいたが、風呂の手伝いまではさせなかった。

 普通、王族は何をするにも人の手を借りるのだが、ロクスバーグでは出来る限り自分の手で全て行っていた。まして裸にならなくてはいけない風呂ならなおさらであった。

 「私、一人で出来ますから・・・」

 顔を赤らめながら訴える風変わりな小国の姫に侍女達はこぞって不審げな顔をした。

 王から姫の世話をするように言い遣っている身としては引き下がれなかったが、同時に出来るだけ姫の願いを聞いてやれとも言われているので、
 「・・・では外でお待ちしております。何かございましたら声をお掛けください」

 今回は後者の命を優先する事にした。

 あからさまにホッとした様子の姫を一人残して部屋から出る。


 フローディアも敵の言いなりになどなりたくはなかったが、体を綺麗にしたいと言う気持ちも確かにあるので、しぶしぶ着ているドレスに手を掛けた。

 そして花の香りのする湯船につかると、ほうっと息を吐き出す。
 久しぶりに一人になりリラックス出来る空間で、フローディアは肩の力を抜いた。大きく息を吸うと、花の香りがスッと脳内をくすぐる。

 「この香り・・・」

 今は無き故郷によく咲いていた花の香りによく似ている。
 不思議に思い、湯に浮いていた花弁の一つを手にとって見ると、確かにそれはロクスバーグに咲く花、シンティだった。

 「一体なぜ・・・」

 自然と笑みが浮かんでくる。これはフローディアが一番好きな花だった。

 しばらく何ともなしに手中の花弁を撫でたりしていたが、ポツリとそれに雫が落ちた事により、自分が今涙を流しているのだと気付いた。

 故郷の花。自分が好きだった花。今はもうない花と故郷・・・。

 その事実が再び彼女の心に暗い感情を呼び覚ます。
 他には誰もいないのに、敵から涙を隠す癖が付いており、はっとして顔を手で覆った。

 そのまま湯船に顔をつける。涙を洗い流してしまおうと思ったのだ。

 泣き腫れた顔で王に会うのは嫌だった。自国を滅ぼされた惨めで可哀想な王女ではなく、ロクスバーグ王国の第一王女であるフローディアとして対面するつもりだ。

 毅然として決して屈しず、隙を見て一太刀でいいから王に浴びせたい。

 もう今のフローディアに死の恐怖などない。あるのは深い悲しみと敵王への計り知れない怒りだけだ。

 「ロクスバーグの王女として、この命、国に捧げましょう・・・」










 「これに着替えて頂きます」

 風呂から上がったフローディアを待っていたものは、相変わらず冷めた表情を浮かべた侍女とパーティーで着るような煌びやかなドレスだった。

 肩口から胸にかけて大きく開いた露出の多いドレスで、体のラインがはっきりと出るタイプのものだ。
 普段、城の中では動きやすさを重視した軽めのドレスが多かったが、これは装飾品も多く、ずっしりと重そうだ。

 「なぜこんな・・・」
 「王と会うのですから当然でございます」



 侍女たちにされるがまま、ドレスを着せられて化粧や髪飾りを施されながら、鏡の前でフローディアは自嘲的に笑った。

 こんなに着飾られた事は生まれて初めてだと言っても良かった。

 ――本当なら、レギンとの結婚式に着るはずだったのに・・・。

 レギンのために着飾って皆に祝福をされるはずだった。だが実際は敵王のために着飾るのかと思うと嫌悪感が湧く。しかもなぜ着飾るか理由が分かるからその嫌悪感は一層増した。




 髪を梳かしていた侍女の一人がちらりと鏡に目を向けた。

 鏡越しに見るフローディアは本当に美しくて、瑞々しい若さの漂う女性だ。
 だが、伏せ目がちな目は長い睫毛に隠されて光はなく、白粉を塗ってもいないのに顔は蒼白で人形のようだったが、風呂上りのために頬だけが仄かに赤かったので辛うじて生きているのだと知れた。

 どことなく瞼が赤いので、やはり泣いていたのだと思う。

 入浴が長いので様子を窺おうと部屋に入った時に微かに聞こえたすすり泣きのような声が聞こえた。

 早く出るようにと声を掛けるつもりであったが、彼女の悲痛なそれについ口を閉ざしてしまった。

 今までただ自分の仕事だけを忠実にこなしてきたが、初めて感情に動かされて侍女としての振る舞いが出来なかった。
 それに侍女は戸惑ったが、風呂に一人で入りたいと言う不思議な亡国の姫に関心も湧いた。

 もちろん女を寄せ付けなかった王が初めて自ら求めた姫である事が一番の関心事なのだが、この姫には何か言葉では言い表せない魅力がある。

 他の姫とは何か違うものを感じるのだ。



 それから幾分か経って、満足そうに侍女達が姫の傍を離れる。

 「お美しいですわ。フローディア様」

 そう一人の侍女に言われて顔を上げた姫の瞳には決意に満ちた妖しい光が見えた。      











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