11
リオウの部屋から逃げるように飛び出したフローディアは足早に廊下を歩いていた。
――私は一体何をしているの!?
王はいぶかしんだだろう。それほどに自分の行動が奇妙に感じられた。動揺を隠しきれていない。
もう少しあの場にいたら取り返しのつかない事になっていたかもしれない。
急いで来たので思ったよりもすぐ自室に帰ってくる事が出来た。あがっていた息を整えて何度も繰り返し言ってきた言葉を口にする。
「彼は憎むべき敵国の王。私から全てを奪った男」
何回も何回も呟いて、やっと気持ちが落ち着いてきた。大丈夫、私はまだ大丈夫だと。
気持ちを落ち着けてからガチャリとドアを開けると、中にいた人物が弾ける様にこちらを振り返った。
「姫様・・・!」
「あなた・・・」
一人でいた侍女のリリィに少し驚いているとリリィは慌てたように駆け寄ってきた。
「王は・・王はご無事でしょうか・・!?」
あまりの剣幕にフローディアは押されて僅かに頷く事しか出来なかったが、それでも無事である事は伝わったらしく、リリィはホッと胸を撫で下ろした。
「よかった・・・」
リオウの無事を隠す事も無く心の底から喜ぶリリィを姫は目を細めて見る事しか出来なかった。彼女は王に恩義があると言っていたが、それ以上の感情があるだろう事は分かっていた。
「・・あなたは彼に恩義があると言っていたわね・・それは・・生まれの事・・?」
シャールからリオウの生まれを聞いてからもしや、と思っていたが彼女の顔を見て確信を持った。
「・・・王のお生まれをお知りになったんですね」
少しだけ寂しそうに笑ってリリィはフローディアに向き合った。
「・・私の祖母はリベル人だったのです。ですから私の中にも蛮族とされる血が流れているんです」
ある程度予想はしていたが、それでも衝撃だった。言われても外見からは彼女がリベル人だとは思えない。
この国でのリベル人の扱いは王族のリオウの受けたそれよりも厳しいものだっただろう。
「私はそれを隠して生きてきました。仕事もして恋人もいました・・・とても幸せでした。ですが、ある時私がリベルの血をひいている事が知られてしまったのです」
リリィは思い出しているのかとても悲しげに目を伏せた。
「私は捕らえられ、奴隷として売られる事になりました。・・誰も・・恋人さえも助けてはくれませんでした・・。私も諦めていた時でした・・王が私の前に現われたのは」
「リオウが・・?」
「ええ。お忍びであったのでしょうか、私を買うと申し出て下さったのです」
奴隷とは名ばかりのものだった。誰も買い手がいなければその場で殺される。蛮族を買う者などいるはずはなかったのだ。
あの日の事は今も脳裏に焼き付いている。私を見る男達の汚らわしい瞳の中にただ一つあった紫水晶。艶やかな黒髪を隠しもせず、真摯に私だけを見詰めていた。
黒髪は蛮族の証拠。当然周りにいた者達は彼を取り押さえようとしたが、まだ若い少年は細身の剣を抜くと舞うように剣を動かし瞬時に彼らを地に伏せさせた。
血しぶきは私の方にも飛んできたが、私はその美しさに目が離せなかった。血の赤が彼の黒髪にとても映えて見えた。
『私と共に来るか』
差し出された手は白く、繊細であったがとても大きく見えた。どこの誰かは分からなかったが、不思議と不安は感じなかった。
『一生・・あなたにお仕えいたします』
取った手はひどく温かかった。
夜、フローディアは何度目かも分からない寝返りをうった。今夜も眠れそうにない。
暗殺未遂があった事により、姫の部屋は一時的に移された。慣れない部屋で眠る事は難しく、今までの部屋が恋しくさえ思う。
「眠れないわ・・」
慣れない部屋である事も原因の一つだが、昨夜の事が頭に残っているのも理由の一つだろう。少しの物音で驚き、まどろみから連れ戻される。
恐怖と緊張で気が狂いそうだった。これ以上一人でいる事が耐えられない。昨夜はリオウが傍にいたから眠れたのだと嫌でも気付かされる。
だるい体を起して部屋にあるただ一つのドアを見詰める。今考えている事をしてはいけない自覚はある。だが、脳裏に浮かぶ儚げな微笑がそれを後押しする。
あの笑顔が忘れられない。どこかで見た事があるような気がするのだ。忘れてはいけないものを忘れている焦りが確かに存在していた。だが、同時にそれを思い出したらもう戻れない事もフローディアは無意識のうちに分かっていた。
溜息を吐いてベッドから抜け出す。少し歩けば眠れるようになるかもしれない。
ランプを片手にトボトボと長い廊下を歩く。普通なら誰かに見咎められるはずだが、ここは隔離された後宮で人が極端に少ないのでその心配はなかった。
ぼんやりと歩いているうちに見慣れない景色が辺りに広がっている事に気付いた。
所々付いていた廊下のランプも見当たらず、人が出入りしている形跡も全くない。
――後宮の奥にこんな場所があったなんて・・・。
不気味だ。きっと朝訪れても薄暗いのだろう。隔離された後宮からも隔離された場所・・・。
引き返そうとも思ったが、好奇心の方が勝った。そのまま一歩一歩確かめるように進んで行く。
「行き止まり・・・」
無言でそびえる黒ずんだ壁を少し撫でる。ここまで扉も何も無かったはずだ。本当に一体ここはどういう所なのだろう。
少し腑に落ちなかったが、ここにいる理由はもうない。夜が明ける前に部屋に戻らなければならない。
だが、戻ろうと向きを変えた瞬間フローディアは目を見開いて動きを止めた。
薄暗いので気付かなかったが、行き止まりの壁のすぐ横に質素な扉があった。煌びやかな城に似つかわしくないその扉には蜘蛛の巣さえ張っている。
ゴクリと喉が鳴るのが分かる。震える手でドアノブに触れる。
この部屋に入ってはいけない、と脳内で警報が鳴っているのが分かったが姫の右手はゆっくりとノブを捻っていた。
鍵もかかっていない扉は重々しい音を立てて開いた。
開いた瞬間漂ってきた埃の匂いに少し蒸せながら手に持っていたランプを掲げると部屋の中の様子が分かってきた。
家具は古びたベッドと小さな机しかない狭い部屋だった。たった一つの窓からはぼんやりと月明かりが差し込んでいる。
「何・・・この部屋・・」
使用人の部屋でもここまでひどくはないのではないだろうか。なぜこんな部屋が王宮にあるのだろう。
恐る恐る近付いたベッドは布団も何もなく、埃を被っており所々黒ずんだ染みがあった。
「この染みって・・・」
嫌なものを感じる。だがそれと同時にどこか懐かしいものも感じるのはなぜか。
ふと目に入り込んだ窓に引き寄せられるように足が動いた。
窓を開けようとしたが、軋むばかりで開く様子は見せない。フローディアは諦めて窓の汚れを拭いてから外の様子を窺った。
外には当たり前のように見慣れた城の庭が広がっていると思っていたが、それは間違いだった。
「これは・・・木・・?」
緑の葉が窓から見る景色の全てだった。どうやら大きな木がこの部屋の傍に植えられているようだ。
葉が月光を浴びて白く光るのを半ば呆然と見詰めていると、脳裏にある光景が浮かんできた。
泣き叫ぶ幼い自分と血を流す少年―――あの少年は・・・
”僕の友達になってくれるの・・・?”
澄んだソプラノが聞こえてきて、フローディアはハッとして辺りを見回した。当然、そこには誰もいない。
「・・・・・リィ・・・」
声に出した瞬間、黒髪の少年が嬉しそうに微笑んだ。
ああ、どうしよう。
少年の笑顔と青年の儚げな微笑が重なる。
「・・・リオウ・・・」
もう、引き返せない。
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