I LOVE YOU 後編






 どうせすぐに諦めるだろうと思っていたのに、何と彼は数ヶ月かけて「こころ」を読破してしまったのだ。
 そして私に先生とKの心情などを細かに聞いてくる。文学好きとして、その話題は無視出来ないものであった。

 「初めて、日本の読みまシタ。難しい、ケド、おもしろかたデス」
 「それは良かったわ」
 「次、三四郎、読もう、思いマス」

 随分と「こころ」で苦労をしたのに、「三四郎」まで?
 彼が自分に合わせるために無理をしているのでは、と思ったが彼は本当に嬉しそうに頬を染めていたので、単純な私は彼が文学に目覚めてくれたのだと喜んでいた――同僚の女性社員に言われるまで。


 「いい加減、付き合ってあげなさいよ」

 トイレでバッタリ会った時に突然言われた。最初は何の事なのか分からなかったが、すぐにアンドリューさんの事だと分かった。

 「・・・付き合うなんて・・」

 会社にいるほとんどの人がアンドリューさんの気持ちを知っているらしい。今まで地味に過ごして来たのに恥ずかしい。
 こんな風に様々な人にまるで私が悪いように言われるのも辛かった。

 「アンドリューさん、あなたのためにあんなに苦労して小説読んでいるのよ?」
 「・・・彼自身、文学に興味を持っただけです」
 「いい加減にしなさいよ、彼、もうすぐアメリカに帰っちゃうのよ」
 「・・・え?」

 思わず持っていたハンカチを落としてしまった。驚く私とは正反対に、彼女は呆れたように溜息を吐いた。

 「知らなかったの?彼、外国支社の交換社員として半年間限定でうちの会社に来ていたのよ」
 「し、らなかったです・・・」

 思えば、彼が来た日の事すら覚えていない。きっと紹介の時に言ったはずなのに、私はそんな事も聞いていなかったんだと思う・・・彼に興味が無かったから。

 興味が無かった?違う、今だって興味なんてないはず。・・・なのに、彼がもうすぐいなくなると聞いて、どうしてこんなにも胸が痛むのだろう。どうして私は泣きそうになっているの?

 「信じられない。あの人もこんな子好きになって不幸よねぇ」
 「好きなんて・・・あの人に好かれる理由なんて私にも分かりません!」

 そう。分からない。彼の気持ちも私の気持ちも何もかもが分からなかった。ただ好きだと言われて素直に信じられるほど私は純粋じゃない。

 混乱して、思わず感情のあまり叫ぶと、彼女は驚いたように目を見開いたがすぐに表情を和らげて落ちていたハンカチを拾いながら話し始めた。

 「私もね、どうしてあなたなのか分からなくて聞いた事があるのよ。・・・きっかけは歓迎会みたいよ?」

 彼女からハンカチを受け取りながら、私は首を傾げた。確かにアンドリューさんの歓迎会には全員参加だったので出たが、きっかけになるような事なんて無かったはず。

 「水、ですって」

 考え込む私に彼女が助け舟を出す。

 「歓迎会で慣れない日本酒で気分が参っている時に、あなたが何も言わずにお酒と水を交換してくれて、それで好きになったんですって」

 そこでようやく私の中の記憶が僅かながらに蘇る。確かに酔って気分が悪くなっていた彼に水をあげた。でもそれは、誰も気付かずに彼にお酒を勧めていたから可哀想に思ったからであって彼に好意があったわけではない。

 「でも、彼にとっては好きになるのに十分な理由だったわけよ」
 「そ、んな・・・」

 今まで彼の好意がどこから来るのか分からずに疑心暗鬼していたが、それが分かった今、どうしたらいいのだろう。今更分かった所で彼はアメリカに帰ってしまうのに。離れ離れになってしまうのに。




 その後も、彼は夏目漱石を読み続け、私は彼と文学について話していた。話しながら、彼がどれだけ良い人なのか、裏なんてないのか分かってしまった。だけど、もう遅い――明日は、彼の送別会なのだから。


 全員参加の送別会で彼は色んな人に囲まれていた。慣れていなかった日本酒も半年の間で大分飲めるようになったのか、悪酔いはしていないようだった。
 私はと言うと、一人、輪から離れてお酒も飲まずにぼんやりと座っているだけだった。

 もうすぐ彼と会えなくなってしまう、と考えるとどうしようもない気持ちになる。だけど、この気持ちをどうすればいいのか分からない。
 アンドリューさんは、あれから私に一度も好きだと言った事はない。それを望んでいたはずなのに、もう私に愛想をつかしたのだと思うと酷く悲しい。

 「・・・外で涼んでこよう」

 彼の笑顔を見ていられなくて、店の外へ出る。春と言ってもまだ寒さの残る夜で、吐き出す息が少し白くなる。
 きっと誰も私がいなくなった事に気付かないだろう。このまま帰ってしまうのもいいかもしれない。

 「さようなら・・・」

 人知れず、彼に別れの挨拶をする。これでもう会うこともないと思っていた。だけど、

 「ミヤコさん!待ってクダサイ!」

 突然肩を掴まれて振り返ると息を切らせたアンドリューさんがいた。
 どうしてここにいるの?まだ送別会は終わっていないはずなのに。

 「ミヤコさん、一人、危ない、送りマス」

 誰も私がいなくなった事に気付かないのに、彼だけは気付いたと言うのだろうか。あんなに色んな人に囲まれていたのに。

 「・・・ありがとうございます」

 本来なら断って、送別会の主役である彼を店に戻すべきだと思ったが、最後くらいは彼と二人で過ごしたいと思った。そのくらいの我侭なら許して欲しい。

 二人で駅に向かいながら、いつもは口数の多い彼はずっと無言であった。何だか居心地が悪くて縮こまっていると、悴んでいた手が急に暖かくなったのを感じた。
 見ると、アンドリューさんが私の左手を握っているではないか。

 ハッとして仰ぎ見ると、彼の白い肌がほんのり赤く色付いている事に気付く。初々しい様子に私も釣られて笑むとまたしばらく無言で歩き続けた。

 だが、駅まであと少し、と言う所で急に彼が立ち止まった。

 「アンドリューさん?」
 「・・・ミヤコさん」

 私の名前を呼ぶ声は僅かに震えていて、繋がれた手に力がこもる。
 そして彼は空を仰ぎ見て、一言こう言った。

 「・・月が、綺麗ですね」

 流暢な日本語で、緊張のためか弱弱しく震えた声だったが、私にははっきりと伝わった。
 確かに空には綺麗な満月が煌々と照り渡っている。だが、彼は言外にもっと深い意味を込めたのだ。

 夏目漱石には「I LOVE YOU」を「月が綺麗ですね」と訳したと言うエピソードがある。日本人ならば「愛している」なんて直接的な言葉ではなく、言葉の流れやその場の雰囲気で「月が綺麗ですね」と言えばその愛情が伝わる、と彼は言ったらしい。

 夏目漱石のファンであった私は勿論それを知っていたし、私の理想の告白のされ方もそれだった。

 アメリカ人であるアンドリューさんは当然そのようなエピソードを知らなかっただろう。しかし、彼は私がファンだからと知って夏目漱石を知ろうとしてくれた。その過程でおそらくこの事を知ったのだろう。

 あぁ、どうして私はこの人の愛情を信じられなかったんだろう。いつまでも変な理想に拘って、彼こそ私がずっと捜し求めていた男性だったではないか。

 「・・・はいっ・・・!」

 涙が溢れてきて、必死に頷く事しか出来なかった。けれど、彼の幸せそうな笑顔を見て私はこの人を愛そうと心に決めたのだ。










 それから私達はお付き合いをする事になった。日本とアメリカ、途方もない遠距離恋愛を乗り越えて、あの告白からちょうど一年経った今日。私は、石崎美耶子から、ミヤコ・テイラーになる。


 「ミヤコさん、月が綺麗ですね」
 「はい・・・とても」











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