序
「姫様!お逃げくださいませ!!」
そう言ってフローディアを逃がしてくれた侍女はもういない。
フローディアは震える足を必死に動かして悲鳴と怒号が渦巻く城の中を走っていた。
一刻も早く安全なところへ隠れなくてはいけない。彼女は王族だ。捕まればまず間違いなく命はないだろう。
――私はまだここで死ぬわけにはいかない・・・!
国と自分のために戦場に出て行った彼のためにもここでむざむざ殺されるわけにはいかない。
と、その時、小さな影が横から飛び出してきて彼女にしがみ付いた。
「お姉様!」
「マルス!?あなた、まだこんな所にいたの!?お母様は一緒ではないの!?」
「僕、お姉様が心配になって探しに来たんだ。お母様や皆は大広間に集まってるよ。ね、早く行こう」
「大広間!?」
馬鹿な、とフローディアは内心で呟く。
もうとっくにこの城から逃げているはずなのに、なぜまだそんな所にいるのだろう。敵はもう城の中に潜入を始めていると言うのに。
時間が無い、と焦って向かった大広間には国の重鎮達が青い顔をして佇んでいた。
その中にいたフローディアの母、エリスもぼんやりと宙を見詰めているだけでその顔には生気がない。
「お母様、どうしてお逃げにならなかったのですか!?もう敵は城の中にまで来ているのですよ!」
「フローディア・・・もう駄目なのです・・」
「・・・え?」
意味を問うたがそれきりエリスはまたぼんやりと項垂れて口を開く様子はない。
その代わりに傍に居た大臣の一人が答えた。
「姫様・・・すでに我らにはこの国を脱出する力も残ってはいないのです。残された道は敵に降伏するよりありません。敵も降伏した者に手を掛けようとはしないでしょう」
「そんな・・・お父様や国の皆は今必死に戦っているのです!それなのに私達が諦めるなど・・・!」
必死に訴えたフローディアの言葉は部屋に飛び込んで来た兵士の叫び声によって掻き消された。
「敵がもうここにもやって来ます!どうかお逃げ下さ・・・」
その兵士は言葉半ばにして突如突っ伏すようにして倒れた。その背中には深々と剣が突き刺さっている。
誰もが息を呑んだ時、何十人もの敵兵が一気に大広間に押し入って来る。その顔は一様に残忍な笑みを浮かべていた。
「こんな所に隠れてやがったのか。探したぜ」
「わ、私達は降伏する!どうか命ばかりは助けてくれ!」
先程の大臣が気丈にも前へ進み出て行ったが、そんな必死の訴えも相手の心に届かなければ意味はない。
敵兵は嘲笑うように大臣を見ると、突如その剣先を彼に向けた。
「そんなに命が欲しいのか?」
「ああ・・・頼む!」
大臣ともなるとそれ相応の地位の者である。その彼が賊と変わりない男に必死になって頭を下げる様子はこの国の者にしてみたら屈辱以外の何物でもなかった。
だが、それほどまでした大臣に男は無情にも剣を振り下ろした。
「悪いな。皆殺しと言う命令なんだよ」
血潮を上げて一瞬の内に絶命した大臣の姿に誰もが凍りついた。彼の死は自分達の死をも意味する事を分かっていたからだ。
これは生を願っていたフローディアを打ちのめすには十分なものであった。まして彼女はこれまで人の死を間近で見た事は無い。
恐怖に動けない者達を取り囲んで笑みを浮かべる姿は獲物を追い詰める猛獣にも似ている。
その恐怖に耐えられなかったのか、一人の男が悲鳴を上げた瞬間、殺戮は始まった。
周りで上がる悲痛な叫びと敵兵の残忍な笑い声。
フローディアは知らず涙を零してその場に崩れ落ち、まだ幼い弟にこの光景を見せまいと必死に抱き締めて耳を塞いだ。
どのくらいそうしていただろうか。辺りが急に水を打ったように静まり返り、フローディアは恐る恐る目を開けた。
だが、彼女の瞳に映ったものは慣れ親しんだ臣下達の無残な死体であった。
「あ・・・いや・・」
間近に迫った死への恐怖に体の震えが収まらない。それは腕の中にいたマルスにも伝わり、まだ幼い少年は不思議そうに顔を上げて自分の姉を見た。
俯いた目の端に敵兵の血に黒ずんだ革靴を捉えて、彼女は一層震えを大きくする。
それを見た敵兵の一人がフローディアに近付き、膝を着いて彼女と目線を合わせた。
「あんた、この国の姫さんだろ?そんなに震えなくても、あんたは殺さないから安心しろよ」
「・・・?」
自分が王族であると知りながら殺さないと宣言する理由が分からない。何か裏があると直感的に思ったが、それは最悪の形で当たってしまった。
「あ!お、お姉様!」
「マルス!?」
男が突然フローディアの腕の中にいたマルスを奪い取ると動きを封じるように後ろから羽交い絞めにしたのだ。
これには今まで放心状態であった母のエリスも悲鳴を上げた。
「マルスをどうするつもりです!命を助けてくれるのではなかったのですか!」
「勘違いしてもらっちゃ困る。殺さないように言われているのはこの姫さんだけで、お前達の処遇なんて聞いちゃいないんだからな」
そう言って侮蔑の表情でエリスを見た後、男はようやく状況を理解したのか涙を零す少年に顔を近付け、その耳元に囁いた。
「今から坊やも大好きなお父様のところに行くんだ」
言われた意味が分からないマルスはお父様?と無邪気に聞き返す。その姿がまた悲しい。
この状況では父の生死はもう分かっていたはずなのに、実際に真実を突きつけられるのは想像以上に辛かった。
自分に優しい笑顔を向けてくれた父はもういないのだ。
本来ならその死を悼むはずだが、今はそれよりも目の前の弟の方が重要だと感じた。男がマルスの目を見えないように手で塞いだのだ。
「こうすれば怖くないだろう。恨むなら自分が男に産まれた事を恨むんだな」
言葉を発する暇も無かった。
マルスは目隠しをされたまま悲鳴一つ上げずに腹から血を流し、解き放たれ、静かに倒れていった。
「いやああああああああ!!!」
二つの悲鳴が重なり、血塗れていく小さな体を包む。
まだマルスの温もりが腕に残っているのに目の前に力なく横たわる少年にはどんどん温かさが失われていく。
「――――はっ・・!」
喉がヒューと渇いた音をたてて、自分が呼吸をしていなかった事に気付いた。
金縛りにあったように重い体を動かして隣にいる母を見るが、エリスの顔は白を通り越して青く、その目には光が無い。
「さぁて次は王妃様の番だ」
その言葉にぎくりと体が震えたが、足は震えるだけでその機能が失われてしまったかのように立ち上がろうとはしない。
――このままではお母様まで・・・!!
父も弟も死んでしまった今、フローディアの肉親は母であるエリスだけだ。彼女までいなくなってしまったら、本当に一人になってしまう。
「止めて!!マルスだけでは飽き足らず、お母様までも奪おうと言うのですか!!」
それだけは耐えられない、と髪を振り乱して泣き叫ぶ声がエリスに届いたのか、彼女はようやく瞬きをして長い睫毛を雫に濡らしながら娘の顔を見た。
その時の母の顔は今までフローディアが見た事もない種類のものであった。
ひどく美しい微笑には悲しみと絶望が滲み出ていたが、それ以上に何かに魅了されているような妖しげな美しさがフローディアを困惑させた。
「お母様?」
「ディー」
フローディアが幼い頃よく言われていた愛称で彼女を呼んでふんわりと微笑んだ母の姿にフローディアは直感的に悟った。
――ああ・・・お母様、あなたは・・・。
エリスは優雅に立ち上がると踊るように大広間に備えられた一番大きな窓に向かって行った。
何をするつもりかと固唾を呑んでいた敵兵達も彼女の行った行為には眼を剥いた。
「私は敵兵に身を任すつもりはありません。この命、国のために捧げます」
そして彼女は青い青い空に舞い上がった。
「お母様・・・」
こうする事は分かっていたが、最後の肉親も目の前からいなくなり、フローディアは敵兵の中、一人取り残された。
この国は負けたのだ。戦に出た兵もほとんどが戦場に散っていっただろう。フローディアが待つ彼の人もすでにこの世にはいないかもしれない。
例えどうなろうとも生きると決めたはずだったが、孤独が彼女に絶望と甘美な死の道を与えた。
自分も母のようにこの国に命を捧げよう。
だが、神は彼女に安らかな死も与えてはくれなかった。
近くに落ちていた剣を拾おうと伸ばした手は敵兵の一人に掴まれて無理矢理立たされる。
「おっと。言っただろ、姫さんには死んでもらっちゃ困るんだよ」
「俺達の王があんたをご所望なんだよ」
――何ですって!?
自分は彼女の全てを奪った敵国の王のために生かされると言うのか。
滅ぼした国の姫を自らの妃として迎える事はよくある事ではあるが、フローディアにはそんな事は考えもしていなかった。
――私は敵王に汚され、生き恥を晒す事になると言うの!!?
それならばここで死んだ方がどんなにか良い。
だが、彼女の思いを察知したのか男が持っていた布で口を縛った。舌を噛み切らないようにするためだ。
「ちょっと大人しくしてて下さいよ。傷付けるなって言われてるんでね」
いくら足掻いても女の身で数多の男に対抗出来るはずも無く、フローディアは担ぎ上げられてそのまま血塗れた大広間を出る事となった。
そのまま城の外へ停められていた馬車に入れられた彼女が最後に見た光景は生まれ育った国の変わり果てた、痛ましい姿だけであった。
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